秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

沖縄・広島・長崎の夏、今年の夏

昨日からあちこちでゲリラ豪雨

台風の影響もあるのだろうが、天候が落ち着かない。野菜は軒並み高騰。中元品の売れ残りバーゲンに人が群がる。銀座の老舗デパートの地下食品売り場が、廉価な弁当を並べ、スーパーの様相を呈している。

今年の夏のレジャーは、近場の親戚の家や数泊程度の家族旅行が増え、長期休暇で遠方へ出向く人が少なくなっている。行くとしても韓国など超廉価な海外。逆に映画は、手軽で安価な休日、休暇の過ごし方。子どものいる家族連れは、予算を抑え、映画を観て、ちょっと贅沢な食材を購入し、食事は外ではなく、家で。

退職まで逃げ切った団塊世代の奥様連中や自宅通学、通勤で可処分所得のある女性たちは、スウイーツ店やホテルのバイキング、高級レストランのお手軽ランチに群がる。

一見、それなりに豊かなように見えて、その背後に、姿の見えない生活への締め付けがちらちらと垣間見える。廉価なものに群がれる人々がいる向こうに、そこにも群がれない人々がいる。

64年前、この月、200万人の戦死者を出した、戦争が終わった。

日本は焼け野原から出発した。それは、生活においても、政治においても、経済においても、思想においても、社会のしくみそのものにおいてもだ。

今年、この国は、焼け野原から出発した64年の社会のしくみや考え方を検証する夏を迎えている。戦後64年の歩みは、本当に、それでよかったのか。よかったとしたら、何がよく、よくなかったとしたら、何がよくなかったのか。

いまの一人ひとりの生活、いまの時代の姿を見つめ、その課題と問題点を見出し、次の時代、家庭においても、地域においても、社会においても、政治においても、経済においても、国のあり方においても、そして、世界においても、どうありたいかを示す夏を迎えている。

いまさえ何とかなればいいのではなく、明日、あさって、その次の今日、それがどういう安心と希望と夢と、可能性を感じさせてくれるかを選択する夏を迎えている。

小泉構造改革によって、極端で、異常ともいえるアメリカ化を強引に進めたこの国が、世界の構図が大きく変り、アメリカでさえ、変ろうとしているときに、どの道を選択するのか。新自由主義がもたらした競争社会を自国の文化としていくのか、それとも、日本人や日本文化が本来もっていた、失われた共同体精神を復権するかの選択である。

昨日、NHKで、広島から移民でアメリカに定住した人々の被爆体験を描いたドキュメンタリーが放映されていた。戦前の移民政策で、アメリカに定住した人々は、広島県出身者が一番多かった。その中で、戦時中に国外退去や自ら広島に帰り、被爆した人々がいる。

幾人かの被爆者の中で、印象に残った、祖母と孫の姿があった。

アンカーの渡辺謙が、被爆者の孫の女性が、広島原爆記念資料館を幼少のとき、思春期のとき、そして、成人した青年のいま、観たとき、彼女が何を感じ、いま、どう思っているかを取材していた。被爆した祖母は何を彼女に伝えようとしたのか。

大学生になる孫の彼女は、正直だった。幼少のとき、祖母をうらんだ。こんなに悲惨で、怖いものを私に見せるなんて、ひどいと思った。あまりのショックに夜は悪夢にうなされた。だが、祖母は思春期にも広島に孫を連れていき、幼少のときと同じように、娘と孫、二人だけで観させた。そして、大人の女性になって、また観させた。

孫の彼女は、いう。幼少のときに感じた、怖さは、思春期になると深い悲しみに変った。そして、青年期に、平和記念公園の慰霊祭で、祖母、母、そして、家族や親族、友人、知人をなくした人々と共に泣いている自分に気づいた。

「いま、祖母が、母が、自分が泣いている。この公園にいるすべての人々が泣いている。その涙は、親や兄弟、親族を亡くした悲しみかもしれない…。友人や知人を亡くした悲しみからかもしれない…。いや、もしかしたら、人がこうして命を失うこと、そのすべてに涙しているのかもしれない…。
 私は、いま決意している。恨みを恨みで返すのではなく、怒りを怒りで返すのではなく、憎悪を愛に変える心を持とうと…」

正確ではない。しかし、彼女が書いた文章の趣旨はこのようなことだった。それを彼女は80歳の誕生日に祖母にプレゼントとした。被爆者である祖母が伝えたかったのは、この思いだった。

彼女たちと面談した渡辺謙は、いった。「平和や戦争を語るとき、共に泣けるか…。それがとても重要なことに思える」。

理不尽に命が失われる、奪われる。自分の家族や親族、身近な人々の死に対してだけでなく、自分の知らない過去の戦争においても、自国ではない遠い国の戦争においても、人の命が奪われる、その事実だけで、共に泣けるかどうか。その祈りの心、願いの心、同じ命としてのせつなさを感じ取れるかどうか。

この夏、沖縄で、広島で、長崎で、あるいは、多くの都市で、無差別に一般市民が愚かな戦争の犠牲になった。その死ばかりでなく、その死に涙するがゆえに、あらゆる世界の紛争によって、声なき人々、女性、高齢者、子どもたちの命が理不尽に奪われている世界の現実に涙することができるか。

平和と戦争、そして、自分たちの国の行く末、世界の中での自分たちの国のあり方を考えるとき、それができるかできないかで、家庭も、地域も、社会も、政治も、国の姿も大きく変る。

他者のために泣く、共に泣く。そこに、競争や排他、差別や偏見、身勝手な正義は必要ない。