秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

小劇場のていたらく

昨夜は、舎弟のSに懇願され、見ない芝居を観る。

だいぶ前に、Sが、居を糾して、オレにいった。なんでも、俳優修行をやっている友人がいて、その舞台が、中野の劇場、ポケットであるので、同伴してくれないかというもの。実は、S、これまで芝居らしい芝居を観たことがない。

中野のポケットと聞いて、いかないと断わったが、珍しく、マジの懇願に、ならば、仕方がないと付き合うことに。何度か、知り合いへのギリで、劇場へ足を運んだが、どれも、見るに値しなかった。仲間内での上演会という、おきまりの限界を越えていない。バックにどこかの映画監督や有名テレビ女優がかんでいるから、舞台と映画やテレビドラマを混同した、ベタな芝居ばかり。演劇の生理がわかってないのだ。

劇場というのは、不思議なもので、劇場によって、そこで上演される芝居の質や内容が決まるところがある。劇場側としては、スペースを埋めることが第一だから、使ってくれるところがあれば、基本、どこにでも貸したいのが心情。上演演目の内容やクオリティに線引きのない劇場で、使用料が比較的安い劇場には、従って、有象無象、どんな芝居でも集まる。そこで、劇場で上演される作品のクオリティが決まってしまう。

だから、逆に、舞台づくりやその内容、クオリティにこだわりがあれば、そうした劇場では、舞台をやろうとはしない。つまり、質の高い舞台は、そうした、なんでもありの劇場では上演されないのだ。

舞台を観るのに、金をケチってはいけない。ほぼ、現在の小劇場は、安かろう、悪かろうがほとんど。Sのように芝居未体験者は、まず、入場料10,000円前後の芝居から入るのがいい。その値段の芝居は、出来不出来はあっても、舞台全体のクオリティが維持されている場合が多いからだ。

基本、それなりの役者が登場しているし、舞台をつくっているスタッフは、いまの日本の演劇界でトップレベルの連中がほとんど。学ぶことは多い。そうした質の芝居を観た上で、小劇場や仲間内でやっている芝居を観れば、その違い、良し悪しが見えるからだ。

いまの小劇場。かつての小劇場と違い、「こんなところで、こんなに凄い芝居をやっているのか!」といった感動に出会うことは、まずない。

今年の初めに、Norikoに連れていかれた芝居は、その意味では、貴重だ。現在の小劇場の舞台に辟易しているオレに、いい芝居だといわせたのだから。いい芝居は、その場面が映像としていつまでも残る。あの芝居は、その意味で、オレに若い才能の登場を予感させた。

オレの作品に登場した役者や知り合いの役者などから、小劇場の案内をもらうが、オレは、ほとんどいくことがない。

明確な理由がある。まず、芝居がおもしろくない。内容が薄く、思慮がない。芝居が下手。演出が緩い。要は、演劇というものを知らない。きちんとした演技訓練をされていない。演出の勉強をしていない。つまり、見る価値がなく、時間の無駄。それは、ほぼ、ほとんどの小劇場の芝居にいえる。

若い連中が情熱や意欲だけでやる芝居は、それだけなら、うっとうしいばかり。自分たちのがんばりをただ見せられても、だから何?といいたくなってしまう。その前に、発声、物いう術、身体訓練をしっかりやれといいたくなる。

紀伊國屋劇場でさえ、最近は、質が低い。だいぶ前だが、東映の女性プロデューサーに誘われて観た芝居。紀伊國屋だからと油断したのが、いけなかった。あまりの芝居の酷さに、途中で、二人して席を立った。

いまの日本では、だれでもなりたければ、役者になれる。役者になるためのアカデミックな勉強をしなくても、どこかの素人劇団に入れば、それで、すぐ役者。演出の勉強をしてなくても、そうだ。それでは、いい舞台が生まれるはずがない。

かつての小劇場は、俳優座文学座、民芸といった新劇の世界で、きちんと訓練を受けた連中が、そこから造反して小劇場をやっていたから、質が高かったのだ。基礎、基本が叩き込まれているから、俳優の訓練でも、演出でも、高い水準にある連中が小劇場を牽引していた。

また、そうしたルートを通らなくても、新劇とは違う世界を構築するために、みんな真摯に演劇と向き合って、学習をつんだ連中が多かった。だから、演劇というものを知っていたし、その生理を理解していた。

いまは、微妙にバイトしてなんとか食いつなげる上に、無理くり役者にノリマでチケットを売らせれば、なんとか赤字にならないで済む。何としても芝居で食うのだという貪欲さがない。どこか、なあなあな感じだから、緩い芝居が多くなる。

テレビの火曜サスペンス劇場や○○シリーズといった、人情悲喜劇みたいな、下町のおばちゃんたちが涙を流してそれでよかったというような芝居ばかりになるのだ。それでは、演劇である必要も、舞台である必要もない。その上、役者が鍛えられていない、演出が無知ときたら、入場料返せといいたくなる。小劇場ほど、まずい芝居を観させられると、大損した気になるのは、オレだけか?

この国の文化は、バブルによって、破綻した。拝金主義の物質優先、損得勘定の世界では、文化は疲弊する。質のいいものを丁寧に創造する。そのための努力と労力は、金勘定でできるものではない。

文化をつくり、育てるのは、人なのだが、それが人々から失われている。なんちゃらかんちゃら、芸術的なものに関っていれば、自分は文化的な人間だと虚栄心を満たす輩がいれば、映画芸術マスターベーションを混同した、インディーズ映画で映画をつくったような気になる。

また、よりひどいのは、有名イケメン俳優や女優を並べれば、なんとか客を呼べると番宣費に膨大な金をつかい、強引に観客を呼ぶ、昨今の映画のようなことも、まかり通っている。

良質のいい作品を観る審美眼が失われているから、そうしたことが平気で通っているのだ。つまりは、観客が育ていないということ。

生活の糧を得るのと同じくらい、文化を育むというのは大事なことだ。文化的素養や教養のない人間、それを身につけようという努力をしない国は、世界からみても、さもしいし、いやしく写る。

麻生のような品格の微塵もない首相を国の長にしている国だから、それも仕方ないといえば、そうなのだが、マニュフェストで、安全保障をことさらに取り上げ、自衛隊の戦闘行動を拡大解釈するような下品な連中には、文化の保持と創造などできはしない。

いまこの国は、人から審美眼や鑑賞眼が失われている。つまり、それは、この国の文化が消えかねない危機にあるということだ。