秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

解散総選挙

両議院総会は開かれず、決議権のない懇親会。

麻生は、「逃げもかくれもしない」と大見得を切りながら、両議院総会に必要な人数に達していないと一方的に懇親会を決め、しかも、非公開。囲み取材では、薄ら笑いさえ浮かべながら、これは自分が決定したことではない。党が決めたことだから、それに従っているだけ。あまりのマスコミ、国民の批判に、直前になって、しぶしぶ公開した。

これが逃げていないくて、何だ。党総裁という立場にある人間が、一国の首相という立場にある人間が、責任をほかに押し付け、はぐらかしの責任逃れ。それを恥かしいことだとも、信頼を失う発言だということもわかていない。

本当に、この人は言葉をしらない。言葉を持っていない。つまり、何の知恵もない。

その無責任さで、連休入りのタイムリミットまで両院総会を開くか開かないかを引き延ばし、連休中には、反麻生議員に対して、造反した議員には、公認を与えず、選挙費用の分配もしない、選区に刺客を送ると恫喝した。そこには、公明党創価学会の支持も受けられないという脅しも折込んで。

自民党は、多様性が売りだった。国粋者もいるが、リベラリストもいる。右から左まで多様であるがゆえに、小泉のように、民主党のお株をとる自民党批判でも政権がとれたのだ。よしあしは別にして、その幅に、これまで、国民は自民党を支持していた。

それが、恫喝や脅しをつかい、自由な発言を、まるでヤクザが、相手の弱味につけこんで、みか締め料を脅しとるように、暴力を使って潰している。これは、小泉の郵政選挙から始まったこと。つまり、公明党創価学会とくっついてから、こうしたヤクザまがいのことを平気でやるようになった。

公明党創価学会とつながっていれば、その組織票の力で、いくらでも自民党議員を恫喝できる。また、公明党創価学会も、何食わぬ顔した、善意の第三者というふりをして、後押ししている。結局、自民党にあった、激烈な議論も、多様な意見をぶつけあう自由な空気もなくなった。ましてや非公開にしたかった。国民の眼には、何一つ見えない密室の世界でないとやれない政治なのか。これも、公明党創価学会が大好きな戦略。自公独裁政権といわれるいわれるゆえんだ。

案の定、今朝の閣議もそこそこに解散が了承され、与謝野も石破もトーンダウン。挙党体制とは、ちゃんちゃらおかしい。恫喝で締め上げて、麻生と公明党創価学会のシナリオ通りに強引に進めようとしているだけではないか。

民主主義が実践できていない人間たちが、この国の政権に座っている。まさに、空恐ろしい。いじめや暴力はいけないと子どもたちに、どう教えろというのだ。そいつらが、しかも、教育行政も担っている。いじめがなくなるわけがない。

昨日、朝の番組で、細田幹事長がフリップを出し、民主党は、こんなにひ弱な政党だと、誰に教えられたのか、わかりやすい文言を並べ、批判していた。民主党の岡田がそれに反論していたのだが、「そういう次元の低い、レッテル貼りを反対する政党に対してやる。そんなことでまともな政策論議がやれていると思っているのですか?」と穏やかに突っ込んだ。

まさにその通り。いまの党執行部、公明党幹部、みんなレッテル貼りが大好き。政策議論をすれば、負けることがわかっているから、ネガティブキャンペーンのように、いじめのように、他者にレッテルを貼り、それをマスコミに吹聴することで、いじめに加わる仲間を増やそうとする。これが幼稚でなくて、何だ。

パッシングされているのは、自分たちだというのが、まったくわかっていない。自公独裁がいままで国民を扇動するためにつかってきた方法で、いま自分たちがその標的になっているのだ。

これはオレの予見だが、公明党創価学会はこれから一月、あらゆる方法を使って集票活動を展開する。なにがなんでもの集票活動で、右に出る団体はない。一人暮らし、入院中の高齢者から、判断能力の弱い人々に徹底的に奉仕し、選挙のときは、車で送迎。

同時に、自公ともに、民主党代表鳩山のネガティブキャンペーンを張り、マニュフェストでは、甘い政策を打ち出し、連呼するだろう。

それに対抗できるのは、これまでどっちつかずだった浮動票の行方。今度の選挙だけは、民主、自民、それぞれのマニュフェストにしっかり目を通して、いまこの国の社会がかかえている問題に、真摯に取り組めるのはどちからかを判断したもらいたい。どうなるにせよ、一部の団体、一部の宗教法人の意向だけが反映される政治とは決別することだ。

民主党が完璧であるはずがない。それは、自公独裁がそうであるように。政権担当能力を吟味したところで、この政治は変らないのだ。だったら、ダメもとで民主党に政治をやらせた方が、まだましだろう。唯一のチャンスをもらった奴は、失敗ができないことを知っている。いつでも下ろされるという危機感が大事なのだ。どうしたって、国民に目を向け、国民のための政策をきっちり実現するしか、生きる道はない。

そこにかけるしか、この国を変える方法は、ない。少なくとも、まずは、失われた民主主義、失われた国民のための政治を取り戻すことだ。何をやるにしても、まず、そこ。その上で、そのやり方はどう、その考え方はどうと、議論していけばいい。

国民の血税で甘い汁を吸ってきた自公独裁を終りにしなければ、それも始まらない。