秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あきらめない意志

政治家なんて当てにならない。

政党なんて信じられない。

浮動票、無党派層といわれる人々は、必ず、どこかで、それを口にする。政治なんて、自分がどうがんばったって、多数決ですべては決まるのだから、どうしようもない。自分ひとりの声なんて政界に届くわけがない。それに、政治や社会問題を声高に議論したり、主張するのは、かっこわるい。そもそも、そんな難しい話はわからない。頭が痛くなる…。

だから、自分の毎日が滞りなく過ごせ、いまある生活がそれなりに守られていれば、とりわけ、政治には期待しないし、かかわる気も、必要もない。

オレにいわせれば、まるで幼稚園児か小学校の低学年のようなことを、平気でいういい歳した大人たちがいる。自分たちの生活に政治がどれほど大きな影響を与えているかが、まったくわかっていない。政治家の当てにならなさも、政党への不信も、結局、自分たちが選択してこなかった結果なのだということがわかってない。

だが、はたと、自分たちの生活に不具合や不都合が生まれれると、時の政権や首相を理論ではなく、感情的にこきおろす。とりわけ、生活習慣のように、長いこと自民党を支持してきたような人に、この手の人は多い。選択をしたことがないからだ。地縁、血縁、金縁で投票してきただけだから、選択できない。鼻から政治に関心がないから、選択のしようがない。結局、愚痴と不満をこぼすだけで、終わる。

いま話題の東国原宮崎県知事までもが、政党は信じられないと簡単にいっている。自身、自民党からの衆議院選出馬が濃厚だというのに。それこそ、所詮、この人も、ありがちな自民党大好きの、そこいらへんのタレント政治家に過ぎなかった。宮崎県民が泣いている。

地方分権は大事だ。しかし、いま日本が抱える問題はそればかりではない。政治のしくみを変える上で、中央集権から地方分権は、明治維新以来の民権運動家の悲願でもあった。真に民主主義的地方分権を考えるなら、これまでの既得権に縛られ、中央官庁と完全に癒着している自民党、その漁夫の利を得ている公明党との自公独裁政権で、それができるはずもない。

民主党プラス野党連合がどうあれ、習慣化してきた自民党と中央官庁との癒着、馴れ合い、その象徴ともいえる自民党税調を粉砕し、国民の手に、地方の手に国民の主権、税の決定権を取り戻すには、とにかく、自公独裁を下野させるしか、いまの日本に道はないのだ。少なくとも、国民の多くがそのことに、気づき始めている。

自民党利権にしがみつく大手企業、癒着と保身だけに生きる官公庁という票田。公明党との連立よって確保された創価学会という大票田。一部の集票力のある団体の力だけで、この国政治が動かされて、もう10年以上の歳月が流れている。むろん、小泉選挙、郵政選挙において、踊らされたおバカな浮動票層が、その実態もわからずに、これら団体の戦略に赤子の手をひねるように、騙されてしまった愚かさが最大の要因。

しかし、あれから時代は激変した。嘘や詭弁は、かならず、露呈する。いまの政治状況、国民生活の破綻がそれを如実に証明している。横須賀市という小泉の地盤で、民主党系無所属の市長が当選したのは、すでに国民が小泉離れを起こしている証左だ。

人々は新しい風、新しい波を求めている。不況という閉塞感を打破してくれると信じた小泉が、日本的な救済や相互扶助の仕組みをことごとく破壊し、残されたのは強者と弱者、富める者と富まざる者の極端な二極化に過ぎなかった。そこに、自公独裁の首相たらいまわしがおき、リーマンショックが来た。しかし、それに対しても無策の限りをつくし、国民生活優先などと詭弁を使い、結局は、国民への負担を増大させているだけだ。

自分たちの政治の失策を自己批判することもなく、長々と選挙もやらずに、無能な総理をたらいまわししてきたことへの自戒と反省もなく、選挙で勝てるタイミングばかりに翻弄されている自分たちの無能さに国民がどれほど嫌気が差しているかが、まったくわかっていない。

国民が求めているのは、かりに、民主党を中心とする野党連合が政権をとったとしても、それがかっての自民党のように、営々と権力にしがみつき、不具合や不都合を国政に生じながら、詭弁を弄することではない。自民党内の良識ある政治家たちと政界再編を行い、政党主義から脱却して、真にこの人の政治主張を実現させてやろうという熱意ある政治家を選択できる道をつくり出すことだ。

もちろん、熱意ある政治家とは、国民に顔を向け、国民生活を第一とし、行動できる政治家。パフォーマンスや威勢のいい演説ではなく、タレント性でもなく、確実に国民の心にとどく声と実行力を持った政治家の出現だ。

それは、単に元タレントの顔と生まれ変った宮崎大好きの人間が、自民党の顔となったところで変るものではない。無所属から自民党に鞍替えし、宮崎県民を見捨てる人間に、国民全体の生活を預かる国政がどうしてやれる。人気とりの政治、いわゆるポピュリズムに踊らされる政治が、どれほど愚直で、国民にどれほどの試練と苦しみを与えてきたか。それが、自戒をこめて認識できていない政治家は、もはや政治家足りえない。

だからとって、当てにならない、信じられないと政治を全否定して、参加しなければ、またぞろ、同じ苦難を押し付けられるだけだ。

政治家や政党のために、政治はあるのではない。自分が生きる、この日本国のためにあるのだ。日本国を支える、国民一人ひとり、自分たち一人ひとりのために、政治があるのだ。どんなことがあっても、そこから引かない、逃げない、あきらめない意志が、初めて、この国に、新しい政治の道を切り開く。

隷従やマインドコントロール、人気主義に踊らされ、その確かな意志が示せないなら、この国の未来はない。それは、あなたの、あなたの子どもたち、家族の未来もないということだ。