秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

たかが携帯 されど携帯

携帯がコケた。

送信者の声は聞こえど、こちらの声が届かず状態。数日前からそんな不具合があり、うちのOA担当者から新機種のiPhonにしたらどうかといわれ、あれこれ手配も試みたが、担当のMから、販売開始以後でないと法人名が15文字以上の企業は申し込みができないという。予約システムの文字入力に制限があったらしい。ソフトバンクよ、なんという愚かなことを。憧れの竜馬が泣くぞ。(ソフトバンクのロゴは、海援隊の隊旗。CEOの孫氏は、コテコテの龍馬ファン)

しかも、予約販売台数でいっぱいで、しばらくは手に入らないない、などと聞いていたのだが、東映のKプロデューサーさんと企画の打ち合わせをしたとき、銀座の量販店によってみたらといわれて立ち寄ると、なんと、30分でお渡しできます。あれれ。話が違う。聞けば、どうやら、でかい量販店は先に買占めをやっているらしい。

なんだよ。と、あれこれ説明を聞くうちに、よく考えれば、必要のない機能が満載。外出先で大辞林を開くことも、英語の単語を調べることも、ほとんどありはしない。ゲームなどはなおのこと。いかん、いかん。消費文化と話題性に踊らされるところだった。

で、帰途、地元、六本木界隈の携帯販社に顔を出すものの、これが、何か違う。ソフトバンク、ドコモなど大手の直販会社は、とにかく、窓口で相談状態。つまり、事前に機種の説明や解説をしてくれる人員がいず、窓口に座ってくださいなのだ。座ったら、そこの機種を購入せざるをえなくなる雰囲気。それも困る。

なにせ、オレは、5年以上前のFormaを買ったきり、昨今の携帯事情には無知。ゆえに、あれこれ、確認したい。それができそうもない。

で、数社のメーカーを扱っている販社をのぞく。ここも丁寧に説明はしてくれるのだが、六本木という人の出入りが激しい場所のせいか、どこか、落ち着かない雰囲気。安心して購入する空気ではないのだ。

結局、昨日、新宿まで出て、以前携帯を購入した、さくらやに出向く。

雨が降り始めた頃だったのだが、店に入るや、店長らしき人物が入り口辺りにいて、丁寧に来店の礼を言うと、雨に濡れた傘をビニュール袋に自ら入れてくれる。およよ。と、その心遣いに心が動く。その男性にいって、機種の説明を聞き、試用機種をさわってみるが、もう一つ、その説明にキレがない。しばらく、一人で、あれこれ手にしていると、ふっと女性店員が近づき、声をかけてきた。おそらく、売り場の責任者が執拗にドコモの携帯を見ているオレを察して、購入確実と読んだのだろう。

しかし、この女性店員さんが売らんかなではなく、それぞれの機種の不備不足をきちんと伝えてくれる。また、こちらの余計なものはいらないという言葉には、なるほどと、それに相応しいが、携帯として最新のものを紹介してくれる。あれこれ、40分は立ち話ながら、一つひとつ機種をとって説明してくれた。こちらも突っ込んだ。ほどよい冗談も挟みながら。オレが求めていたのは、これだ、これ。こういうやり取りだ。

結局、店に入ってから1時間後、さくらやで、新機種ながら、携帯電話として不利不足なく、デザインもオレが気に入った機種を購入した。女性店員さんいわく、この機種も5年や10年使えますよ。ほんとだ。そのとおりだ。

ほかの店の女性店員さんもいっていたが、これだけ、多様な携帯やモバイルがあると、消費者は悩む。機種が増えれば増えるほど、説明も必要になるに違いない。まして、同様の機能なのにデザインが多様。これでは、購入する方が迷うのは当然だろう。

どこか、過剰で、余剰。販売会社同士の競争に加え、携帯電話のメーカー間の熾烈な競争もあって、多種多様の競争が、余分で余剰なものを生みすぎている。と、考えるオレは、ロートルだからか?

この間、セブンイレブンジャパンの売れ残り商品のダンピング販売について、公正取引委員会が本部に改善命令を出した。世界で飢餓に苦しむ人々がいるというのに、この国はコンビニを中心に、食べ残しの廃棄が、世界の飢餓を満たす量の三倍以上に及ぶ。FC店舗の経営者が、もったいないからとダンピングをして販売するのを品質管理とブランドイメージを損なうからと、圧力をかけた。契約を打ち切るという脅しだ。

人間の普通の感情、常識があれば、これまで、大量の食糧廃棄を当然としてきていた、アメリカ的セブンイレブンの手法は、明らかに誤り。食糧不足、水不足、エネルギー資源不足が身近なものとなり、それがより現実味を帯びているのに、あいかわらず、ガソリンを食う大型車ばかりを開発し、破綻したアメリカ三大自動車メーカーと同じ発想で、大量消費がよきことという神話にしがみついている。

あれもこれも、これもあれも。消費が低迷すればなおのこと、消費者の堅い財布をなんとかこじあけようと、多様という名の過剰さが生まれる。それは、アフリカの飢餓にあえぐ人々を引き合いに出すまでもなく、この国のいまを見ても、異常だとしか思えない。

生活保護費以下の収入しかない世帯が急増しているというこの国が、それへの抜本的な手当てもなく、世界最大の食糧廃棄物を生んでいる。フロンガス対策もさることながら、エコポイントなどをいうなら、こうした食糧廃棄についてこそ、しかるべき国の対策があっていい。明日の生活に困窮する人がこの国にいるというのに、飢餓に苦しむ人々が世界にいるというのに、恥かしくはないか。

生活の当たり前だと思っている風景、過ごしている時間を疑うことが必要な時代に、いま、オレたちは生きている。

オレたちが子どもの頃は、一つの電化製品を執拗に使った。買い替えは勇気のいることだった。たまに、親に何かを買ってもられば、それが服であれ、物であれ、大事に使わないと叱れらたものだ。壊れたら買い換えれば、それでいいというものではなく、壊れてしまった、その使い方、扱い方に一言小言があった。

それは、単にもったいないの精神を教えただけではない。物を生み出す、資源、物をつくり出す人の知恵や努力に対する感謝を教えたのだ。それは、資源を生み出す自然への感謝であり、人への、いのちへの感謝だ。自分の持つ、一つの物の中に封じ込められている、様々ないのち、願い、汗、生活…。それを感じられる人間になれという教えだった。

物を大切にする。その一つで、学べることがある。人への思いやりも、いわたわりも、物を通して伝えることができるのだ。それをこの国は、なくしている。それが、人との関係においても、超鈍感な人間を量産しているように思えてならない。

過剰、余剰は、人の心を荒れさせる。