秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

情緒なき政治が生んだもの

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Cencury Court 日比谷にあるオイスターバー&レストラン

ニューヨークのグランド・セントラル・ステーションに本店がある。ニューヨーク好きのオレを知る、Kプロデューサーさんに、ランチ打ち合わせで連れていかれた。店内に入ると、まさに、セントラルステーション。列車で長旅に出る人たちの出発前の腹ごしらえや通勤でニュージャージーへ帰るサラリーマンが列車を待つ間、カウンターバーで時間をやり過ごすための店。その雰囲気のままだ。

値段はちょい高めだが、サービスもいいし、料理もうまい。が、オール禁煙。オレの事務所のすぐ近くにあるミッドタウンは、ここもマンハッタンの5番街のミニチュアのような場所だが、そこに入っているレストランも大方オール禁煙。だから、地下のスーパーにはいっても、うまいのはわかっているが、レストランに入ったことはない。

もう10年以上も前、アメリカが金融操作によって、不況から一時立ち直ったとき、喫煙者とデブは、仕事ができるかできないかにかかわらず、ことごとく、エリートコースや昇進のチャンスからはずされるということが起きた。生活習慣を糾せない人間は、社会の上層部にいる資格はない。金融業界を中心に広がったそのブームが、アメリカ大好きな団塊世代に伝播し、あれよあれよと、日本でも禁煙ブーム、ダイエットブームが広がった。

確かに、喫煙もデブも体に悪い。喫煙は、非喫煙者からすれば、はた迷惑な存在なのもわかる。喫煙者でも、喫煙室の煙もくもくの部屋に押し込められて吸う煙草は、決してうまいものではない。

が、しかしだ。

昨今は、メタボ対策で、厚労省の企業への社員の健康管理義務が厳しくなった。国庫をつかった、社会保険費を抑えようと、国がやっきになり、病気や疾病を減らすために、予防策を打つように指導しているからだ。大手企業の中には、喫煙者はもとより、メタボ健診にひっかかった社員を外回りの営業や工場へ配置転換するということまで起きている。高齢者の介護保険費を減らそうと、介護予防のための指導を行政が必死に取り組んでいるのもそれ。結果、無理な運動や食生活を高齢者に押し付け、それがよかれという善意の虐待まで生んでいる。

国、自治体、企業が、人の嗜好の問題に直接働きかけ、国、自治体、企業にとって、不利益になるからといって、それをコントロールするというのは、いかがなものか。健康を盾にとれば、反論のしようもない。それを逆手にとって、人の嗜好によって、人を評価し、人事や雇用にまで独善的な力が及ぶというのは、ある意味、人権侵害だ。

すなわち、お前の暮し方、気に入らないから、転属な。お前、高齢者で病気するとはた迷惑なんだから、食事制限して、これくらいの運動やれよな、式の理不尽さ。

健康管理への意識を促し、疾病を少なくすることと、その人間の嗜好によって、人を評価することは別の問題。生活習慣を糾せていないことは、批難されても仕方がないが、きちんと仕事をし、自分の嗜好に責任、つまり、社会的なルールやマナーを守っていれば、それが出世や昇進から排除される条件になってはならない。高齢者の健康を心配することと、残りの人生がわずかな高齢者に我慢ばかりを強いて、個人の尊厳を踏みにじることは別の問題なのだ。

タバコも吸わず、運動を心がけ、いつも明るく元気。その輪に入れないものは排除するという、社会は、人の痛みや弱さを受け入れない、多様性にかけた、薄っぺらで深みのない、脆弱な社会だ。前にも書いたが、一つの価値だけに固まった、一枚岩の社会では、そこからこぼれることを許さない。それが、人々に長期にわたるストレスを与える。悪さをする隙間やハメを外すいい加減さ、間違いや失敗を許すゆとりのない社会は人を殺す。

景気がよくなったところで、この社会全体を覆っている意識が変らなければ、自殺者は減少しないし、はじき出された人間が憎悪をたぎらせ、意味不明の犯罪を冒すということもなくなりはしない。

大麻の蔓延がいま話題になっているが、これも同じところに根っ子がある。一枚岩の社会で、幼い頃からいい子を演技してきた連中が、早稲田や慶應を始め、そこそこの大学に入って、ふと気が抜けたようになっているところに広がっている。数年後の自分の人生が読め、かつ、その読めた人生が保障されてもおらず、かといって、その試練に打ち勝てるだけの自信がない。なぜなら、一枚岩のいい子教育しか、されてきていないからだ。それへの不安とあきらめが、手軽に手に入る大麻へ走らせている。

しかし、一枚岩の価値観しかしらないから、逆に、それでも、自分たちは間違ってはいないと思う。自分たちは、がんばって、ここまで来たのだから、何をやっても許されるという自己中になっているのだ。京都教育大学の輪姦事件など、その典型的なものだ。自分たちが生きてきた価値以外のものを知らないから、他者が理不尽なことをされたら、どのような痛みを感じるかがまったくわからない。

この社会の歪みをつくってきたのは、まさに小泉改革路線。いまだに、小泉を支えてきた、元幹事長の中川は、党首討論での鳩山の、次期政権をとったら、日本郵政社長の西川の首を切るといった発言をとらえ、構造改革路線を否定し、逆行させるもので、これは、次の選挙の眼目になるとぶち上げた。

もういい加減にしてくれ! その国民の声がまったく聞こえていない。

構造改革という美名をつかって、国民を踊らせただけで、単に日本をアメリカ社会に変え、人々から互いへのやさしさやいわたり、救済精神を奪っただけで、金融や大手企業のトップ、外資系企業がおいしい思いをするだけの社会をつくっただけでないか! 国民の多くが、いまそう思い始めている。

鳩山の答弁は情緒的だと細田官房長官は揶揄していたが、政治は、人々の痛みや苦しみに共感するところから始まるのだ。共感するがゆえに、その痛みや苦しみを取り除くために、政治はどうあるべきかが考えられるのだ。その根幹にあるのは、情緒でなくて何だ。小泉以来、その情緒を政治が捨ててきたところに、この日本国のていらたらくを生んでいるのではないか。

暗礁に乗り上げている本の企画の中にも、この思いを叫んでいるが、これがいま人々が求めている声だとわからない連中は、超鈍感な奴か、いまの社会、人々の心情をまったく理解していない輩というしかない。