秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

何かの縁

5月に三重県伊勢神宮で式を挙げた、秀嶋組のご意見番女史、ヘアメイクのHの結婚祝いを25日にやることにして、秀嶋組スタッフに連絡。

お祝い品に気を遣わせたくなく、かつ、お祝いをしたという形をとるため、普段は会社で費用負担するのだが、今回は¥5000の会費制にした。バイトやりながら、芝居やらダンスやら、稽古事もやっている役者連中や金にならない仕事ばかりやらせているスタッフ連中には、ちょい悪いが、役者たちには、普段、自分たちの顔をつくってもらっているHに心ばかり自腹を切らせるのもいいだろう、スタッフには、仲間のためという思いを込めてもらいたく、教育的指導も含めてそうした。

以前、本の打ち合わせで、酒豪編集者Rと飲んでいるとき、参加しますの返信メールが送られてきて、「秀嶋組の集まりの度に、監督のオレが自らイベントを仕切るというのも、いかがなものか。普通、だれかが先に言い出して、仕切るもんだろう」と、不満をいったら、「みんな気を遣ってるんですよ。だれかが仕切ったら、絶対文句いわれるし」と、ズバリ、的をえたことをいってくる。確かに。

声をかければ、照明のSや女優の内田なんかは仕切りができるのだが、おそらく、奴らに仕切らせたら、オレがあれこれ言うことになって、かえって面倒くさいことになるだろう。それを奴らも、オレもどこかでわかっている。それに、事務所兼自宅の乃木坂でやるホームパーティでも、自慢の手料理を無理くり奴らに食わせ、うまいだろう!と、押し付けることに、快感を感じているオレがいる。

いまは書籍だけだが、Rがオレの映像関連の企画に深く絡んでくれるようになり、スタッフ一人ひとりと繋がってくれれば、いずれRが仕切ってくれるようになると、勝手に決めている。

最初は10人程度かと思っていたが、あれこれ声をかけていたら軽く15人にはなり、もしかしたら、忘年会並に20名ほどににもなるかという人数になってきた。つい、縁のある奴には声をかけてしまう、寂しがり屋のオレ。

昔の言葉で、オレの好きな言葉。「袖触れ合うのも何かの縁」。

飲み屋や仕事など、どこかで出会い、何がしか言葉を交わすような人には、自分たちも気づかない何か見えない縁があるのだと、子どもの頃からおふくろによくいわれた。しかし、実際に、出会った当初は、そんな深いつながりになるとは思っていなかったのに、その人物が自分のその後の仕事や人生に大きな役割を果たしてくれたという出会いが人にはある。オレにも多々あった。

だから、出会いは大事にしなくてはならない。それが、結果的にいい出会いにならなかったとしても、そこから学べることは多いし、何かの縁で、それが自分の人生のプラスになることだってなくはない。だから、オレはいつも出会いを生かそうと思う。

それがあれば、意見の違いや対立はあっても、つながりあえる何かを見つけ出すことができる。仮に、そのとき見つけ出せなくても、自分がしっかりその出会いを生きようと覚悟していれば、何かで、どこかで人は人とつながり合える。

若いうちは特に、その突撃精神は大事だ。それなりの齢を重ねてくると人を見る目も鍛えられるし、毎回突撃精神でやれるほどの体力はなくなってくるから、ある程度のチョイスはやむ得ないと思うが、それでも、一言二言言葉を交わして、つながり合えるという印象があれば、その出会いは大事にした方がよい。

出会いを生かせない、人とのつながりを自分の都合だけで見ていた、といった反省を持てるのも、人との縁を大事にしたい、どこかでつながりたいという自分の気持ちがあるからだ。

いまの時代、仕事では、仕事の中だけ、男女の出会いも形だけ、という具合に、どこか心を閉ざし、人との縁を生きよう、生かそうとする人が少ない。このブログで何度か書いているが、人は人に育てられる。
人は人でしか癒されない。人は人から多くを学ぶ。

それは、みんな縁がもたらしてくれるものだ。一つの縁をいいものにするのも、自分にとって不都合なものにするのも、実は、自分だ。

人と人とのつながりは、奇跡を起こすことだってできる。それまで叶わなかった夢や未来を拓くのは、自分の熱意や努力だけではない。それに共感してくれるだれかがいて、初めてできる。

人は、人で未来を拓かれるのだ。