秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

語りつくせぬ思い

人への気遣いや思いやり。それがあることで、人は、ときとして、自分の中にある深い思いを素直に言葉にすることができない。

他人への配慮から、自分の思いを封印してしまうこともある。親に愛されたいと思いながら、それが、受け入れられないことで、強く反発したり、密かな自傷や非行行動をとるというのも、その裏返しだ。日々の生活の中で、傷ついていたり、実は、孤独だったりする自分を隠し、つくり笑いで他人と合わせようとするのも同じ。

だから、人は、真実で人とつながりたいと願う。損得という利害が生まれるのは、人が生きていく上での必然だけれど、損得だけで生きられないのも人なのだ。しかし、傷つくのがこわいから、できるだけ安全な道をと、損得を計算する。

損得を計算してしまうのは、金や社会的地位、立場、他者との優劣の関係に置き換えた方が、人を深くみなくてよいから。人と深く結びつかなくてもすむからだ。「金で解決できるなら、そんな簡単なことはない」と、肉弾戦の必要な面倒な人間関係に巻き込まれると人はよくそういう。そして、実際、金銭で問題を解決できることは少なくない。つまり、人とこじれた関係を生きるくらいなら、損得に置き換えた方が楽なことを知っている。

人生に無駄な時間はひとつもないし、やり直そうとして、遅すぎることはない。損得の計算なしに、失敗したり、挫折したり、傷ついても、意味のないことなど一つもない。自分はこうしたい、こうなりたいという夢を実現するのに、年齢は関係ないし、決してあきらめない、その思いがあれば、すべては、未来を拓く糧になる。

そう思いたいが、それが信じきれないから、真実を求めているのに、目の前の事実だけに、人は振り回される。結果、人とのつながりや関係を損得に置き換えてしまう。事実の向こうにある真実を見失ってしまうのだ。

しかし、出会ったものすべてが、その人にとっての真実なのだ。自分を傷つける奴がいることも、自分が傷つける人間であることも、すべて真実。この世の中、いい人と悪い人、それだけで分かれていれば、そんなに苦労ない。いい自分といけない自分、自分の心がきちんと色分けされていれば、悩むこともない。

だが、苦労したり、悩んだりするから、人は少しずつだが、真実と向き合うことができ、その結果、自分の心も素直になり、損得ではえられない人と出会えるようにもなる。未来への希望や夢を生きることもできるようになるのだ。

昨日、ご近所住まいのRYと遅いランチをした。この間もRYを紹介したときに、ふれているが、RYは、人にひどく傷つき、辛い1年を生きている。この数ヶ月前に、暗い洞窟からやっと抜け出せたばかりのRYは、この1年、人に語りつくせぬ思いを抱え続けていたのだ。語りたい、知ってもらいたい、わかってもらたい苦痛を抱えて、ひとりぽっちの時間を生きてきた。

オレといて、とめどなく言葉が溢れてくる奴の顔を見ていると、この1年がどれほど苦しかったか。奴が、どんなに悲惨な日々を生きてきたかが、溢れている言葉の向こうに見えてくる。しかし、その中で、奴は、思春期には対立していた母親との絆をより深くした。涙が出るほどの感謝を、いま、母親に感じている。再婚した母親のために、両親へ世界一周クルージングのプレゼントをしようと貯金している。それほどに、子どもとして親に試練を与えてきたことを自覚しているのだ。

しかし、苦しみ、悩んだがゆえに、遠隔地にいながら、自分を妹のように叱咤してくれる貴重な兄的存在とのつながりも深くなった。あたらなビジネスに船出しようとする、若い奴を、親のように、時に厳しく、時に深く、応援してくれるスポンサーたちとの絆も保てている。

まだまだ、語りつくせぬ思いはあるのだろうし、心の傷が癒えているわけではないかもしれない。しかし、もういままでのような愚かな過ちはしない、そうつぶやく奴の言葉に嘘はない。

がむしゃらに生き、自分も傷つき、しかし、人も傷つけ、それゆえの痛みを知った人間は、きっと自分を変えることができる。

愚か者であるがゆえに、人は、愚か者から脱することができるのだ。
愚か者を生きなければ、愚か者の愚かさを心から自覚することはできない。
愚か者を生きながら、自分の愚かさに自覚的になれない人間は、それを人生の糧にすることはできない。