秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

拝む心

「女」という字は 女性が神仏の前にひざまずき 両手を合わせ

祈りを捧げている姿を 横から見た形を 文字にしたものだ

正面や背後からでなく 横から見た 女性が何かの思いを込めて 一心に祈る姿が 

女という文字になっているというのは いろいろ考えさせれる


初めて 「女」という文字の成り立ちを知ったとき

その成り立ち 女という文字に気づいたのは だれなのだろうと思った


オレは映像の人間だから なお そう思うのかもしれないが 時代劇などでもそうだが 女性が

夫や恋人 子どもの無事や成功 病気の家族 出産の無事などを願って 神仏の前にしゃがみこみ 

手をあせているショットは 女性の右横からのショットが 一番美しいと思う

まさに 「女」という文字通り


その美しさは 左側ではなく 右側の方が格段上だと思う

つまり 男性と並んだときは 左側


女という文字に気づいたのは だから 男に違いない そう確信するのには 理由がある 

着物のあわせを考えれば すぐにわかること 着物のあわせは右前 左前は死出のときだ

だから 女を抱きよせ 女の体にじかにふれるには 女の右側 つまり 男からすれば 

女が左側にいる方がふれやすい 着物の奥に右手を伸ばすのには それが都合がいい 

つまり 女の右側が美しく思えるのは 男女の性と結びついているからだ  


しかし そうした男の生理が 「女」という文字に気づいたにせよ 性的な場面でのそれではなく

女性が祈りを捧げている姿だったというのが 考えさせられる


オレは いつも社会問題や人権の問題には 男女の性が深くかかわっていると語る

それは 人間の心のあり様 その人の人格の形成のされ方と 性とは不可分だからだ

社会を構成するすべての人に 性の問題はあり それをしっかり見据えていなければ 人の本質も

人と人で構成する社会の真実も見えない と思っている

それは 生活の中の一場面だけでなく 政治においても 経済においても同じ

男女がこの世にいる限り そして 父や母という存在なしに この世に生を受けられない以上

人は性と無関係に あらゆる社会活動はできないし それと無縁ではない


きれいごとの正義やきれいごとの社会批評が 実にくだらないのは そこを常に見過ごしているからだ


女という文字の成り立ちと そこにある性は そのことを実感させてくれる


祈りという 神聖で 真摯で ピュアな世界と 性が結び付く そこに人間の本質や真実

そして 愛があるのだと思う

「女」という文字に気づいたのが だれかはわからないが その男には それがきっとわかっていたのだ

祈りと性 それが結びつくからこそ 人はいとおしいのだと


しかし 人は それを別のものと考えたがる 祈りを忘れ 性だけを求める また 性を忘れ

祈りだけを求める


女という文字の成り立ちが 女性だからといって 男にも祈りがあっていい 神仏に 見えない何かに

手を合わせる心があっていい しかし それも 女のすること と祈りを忘れる


それでは 女を抱き寄せ ただ体を求めるだけの 祈りを知らない つまり 愛を知らない男に

成り果てる そこには女性への敬意も生まれなければ 同性への敬意も 他者への尊敬や愛情にも

出会うことはできないだろう


女性を愛するということは 祈りの美しさ 真摯さも 共に受け入れるということなのだ

男女ともにそうだが それに気づけないうちは 恋ばかりでなく 人へのやさしさ 思いやり

気遣いにも 目覚めることはできないような気がする


昨日 朗読会で いい朗読を聞かせていただいた 津野さんと演出の斉藤さんに 御礼のメールを

入れた そして また その御礼のメールを お二人からいただいた

仕事では ほとんどお付き合いがないが そうした「ありがとうございました」の一つ一つを

大事にされている心が こちらにも伝わる


「女」という文字の意味を知るということは そういうことだ


余談だが いい女は いう 「そっちじゃなくて 左側がいい」

二人並んだとき そういう女は いい女 離してはいけない

道を歩く時 車道側を歩く女を 無言で すっと男の左側 車の来ない方へ体を入れ替える

そういう男は いい男 離してはいけない