秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

不思議体験 其の六

昨年、後半に起きた通り魔事件の件数は、普段なら1年に起きる件数が半年の間に集中して発生したとい

います。

家庭内での殺傷事件も昨年は例年より件数が多かったようです。

犯罪そのものの件数は減少傾向にありながら、犯行動機も要因もはっきりしない事件の件数は確実に増え

ているのです。

そこにはいろいろな要因が推測できますが、なぜ人を殺すまでのことをしなくてはいけなかったかという

点に限っては、その理由が本人にも周囲にも、よくわかっていないというのが現実のようです。


ひとりっきりの部屋で 不安と孤独の中にいると 心の闇が襲います。

夢と現実の境目もはっきりしなくなり、時間が停止して、同じ時間を何度も生きているような感覚にとら

われます。昨日の自分が何をしていたのか、一昨日の自分は何をしたのか、だれと会っていたのか…。

その記憶すら希薄になり、自分の毎日の時間が少しも進んでおらず、同じことを同じ時間に、ただ繰り返

しているのではないかという感覚にとらわれるようになります。

自分は本当にこの世に存在しているか。いま、自分が生きていると思っている時間は、夢ではないのか。

死後の世界を死後とは知らず、自分は一人きりで生きている気になっているのではないか…。

やがて、流れることのない、停滞した真っ白な時間と空間がその人を襲い、心が何か自分の力ではないも

のに呪縛されたようになり、人を殺すことへのためらいも、おそれもなくなり、自分が生きている証を得

るために、人を殺すことを夢想し、そして、人を殺したという記憶すら、自分の中から潰えていくので

す…。


20歳の頃、わたしは西武新宿線の秋津というところに住んでいました。

当時、駅前には数件の商店街があるだけで、その周囲は関東ロウム層特有の褐色の畑が広がるひなびた

町でした。友人が訪ねてくることもほとんどなかったのですが、六大学野球の応援にいった帰り、なけな

しの金をはたいて数人でのみ、酔った勢いで、新宿から約1時間はかかる、わたしのアパートまでみんな

がやってきたことがあります。

駅に着くと、警察官たちが数名、職務質問をしています。そのときは、さほど、気にもとめていなかった

のですが、一人の同級生の女の子が、若い警察官から「気をつけなさい」と声をかけられたというので

す。

「なんか、昨日、近くで女の人が殺されてたらしいよ…」

「それでか…」

いつになく、制服姿の警官が多い理由がわかりました。

「あなたもかわいいから、気をつけないって、いわれちゃった!」

その子は、近くで殺人事件が起きたというこわさより、若い警察官に「かわいい」と言われたことがうれ

しくて、さほど事件のことは気に止めてもいないようでした。

「若い子で かわいかったらしいよ、その子…」

しばらくは、がやがや事件のことが話題になりましたが、すぐにそれは立ち消え、大学のことに話題は変

わりました。そして、空が白み始める頃になると三々五々、みんなは帰っていきました。

その夜、下の喫茶店でコーヒーを飲んでいると、マスターが事件のことにふれ、

「あの家は、母親も素行が悪くてね。殺された人のこと、悪く言うのもなんだけど、男好きでさ。娘のそ

うで、すぐに男と寝ちゃってたらしいよ…」

マスターは、性的に依存傾向が強く、それが見も知らない男に体をまかせることを習慣化させ、その果て

に殺されてしまったのだろうと考えているようでした。界隈でも、そうした噂が広がっていたようです。


わたしは、そのとき、ふと、電車で眼があった、一人の若い女性のことをなぜか思い浮べたのです。

事件が起きる数日前だったでしょうか。

疲れて帰る電車の中でうとうとし、駅のアナウンスが流れて、眼を開けると一人の若く、きれいな顔立ち

の女性が、手の指で、あのセックスのサインをつくっているのです。わたしはどきりとして、その子の顔

をみました。その女性は、隣に座る男性に気づかせようとそのサインを示しているようでしたが、男性は

気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、反応していません。

すると、その子は、わたしが指のサインに気づいたことに気づき、視線を強く絡めてきたのです。

疲れていたわたしは、その視線にどきりとはしましたが、自分の駅で下車することの方が大事で、すぐに

席を立つと、開閉ドアの前に立ちました。

すると、すっと背中に、彼女の腕がふれたのに気づきました。

姿を振り返って見ていないのに、すぐにわかりました。体が誘っていたのです。それを直感的に感じたの

です。下腹部が熱くなりました。

わたしはどぎまぎしながら、電車を下り、一瞬、声をかけるようかと迷いました。

しかし、周囲の眼もあり、改札を出ると丁度、警察官がそこに立っています。彼女に声をかけるのは、た

めらわれました。ですが、彼女はあきらかに、声をかけられるタイミングを待つように、ゆっくりと帰路

への道を歩いているのです。

わたしは、結局、その場ですぐに声をかけることはできませんでした。そして、しばらく歩き、人気がな

くなった頃を見計らい、彼女が曲がった道の方へ、彼女を追って歩いていきました。しかし、どこまで歩

いても彼女の姿をつかまえることはできませんでした。まるで、夢を見ているようでした。

マスターの話を聞いて、あのときの彼女がもしかしたら、被害者なのではなかったのだろうかと思ったの

です。


男も女も、あるふとしたきっかけで、見も知らない異性に体をまかせることはあります。

さびしさだったり、何か忘れたいことがあったりすると、何とない勢いにまかせて、セックスをしてしま

うことがあります。昔の映画で、『ミスター・グッドバイを探して』という名作がありました。性依存の

お堅い女性をダイアン・キートンが演じ話題になった映画です。セックスを通した、擬似恋愛でしか、満

たされず、本当の恋を求めながら、恋に真実を求め始めると、そこから逃げ出したくなるという、いまで

も通じる女性の心を見事に描いた映画でした。

きっと、その女性もそうした心理的な欠陥をかかえ、その夜限りの相手を探していただけなのでしょう。


しかし、その夜、不思議な夢を見たのです。わたしが、部屋の押入れに、血まみれの女性の死体を必死に

隠そうとしている夢でした。死体のこわさより、この死体をどうにかしなくては、大変なことになるとい

う不安におののきながら、どうしてよいかもわからず、慌てているのです。

眼が覚めと汗で体はぐっしょりと濡れていました。

どうして、そんな夢を見たのか。自分でもわかりません…。


その日の朝、私服の刑事が部屋を尋ねてきました。例の殺人事件でローラー作戦で、独身男性の家をしら

みつぶしに当たっているようでした。

「血液型は何型ですか?」

「A型です」

そう応えると、刑事は、「一応、確認しているだけですから…」と薄く笑って帰っていきました。そし

て、二度と尋ねてくることはありませんでした。たぶん、殺人者が残した精液はA型ではなかったのでし

ょう。

しかし、それからしばらくは、あの夢の謎に苦しめられました。

あの夜、彼女を追った先に、実は、彼女はいて、わたしは、自分の部屋に彼女を連れ込み、セックスを

し、何かの諍いで彼女を殺してしまっていたのではないのか…。

そうした痕跡は、部屋にひとつもないのに。刑事がわたしを追っているわけでもないのに、その不安、

自分の知らない自分がどこかにいるのではないかという不安に、わたしはしばらく苦しめられたのです。


そして、その殺人者は、みつからないままで事件は迷宮入りしたのです…。


自分のことをわかったような顔をして

実は

自分のことなど

何ひとつ ほんとうは知らない

それが

自分なのです…