秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ごみを捨てる大人たち

被災地の人通りの少ない場所に、ごみを捨てるという人たちがいる。心無い、常識がない…批判もできるが少し考えてみよう。
 
もしかすると、それは、地元の人かもしれないし、地元周辺の人かもしれない。

防災視察や慰霊視察という名目で、観光での応援といいながら、被災地にバスツアーなどで立ち寄り、そこで、心無い行為で、ごみを捨てる人たちかもしれない。

だが、本質にあるのは、そこが被災地であるかどうかという問題ではないような気がしている。

おそらく、かつて被災する前の地域でも、その海岸でも、海水浴や海で遊ぶ泊り客、観光客の中には、平気でごみを捨てていく者もいただろう。

地域や地元で、いつも決まって所定の場所以外に、ごみを捨てる心無い人もいたかもしれない。

もっとうがった見方をすると、被災した後、ごみを捨てるという行為で、自らに封じ込めている孤独感や孤立感、焦燥や不安をすり替えようとしている人さえいるかもしれないのだ。

それは、特段、被災地に限らず、ごみ屋敷やカラスや野良猫への餌付けといった姿でいま全国各地にみられる。
 
また、鎌倉の海岸で飲酒や花火を禁止したように、社会性や社会適応力のない、若い世代の行為と同じで、特段、場所を選んでいるわけではないのかもしれないのだ。そこが鎌倉であろうが、被災地の海であろうが、奴らには関係ない。

いま、人々がごく当たり前にできることができない人が増えている。

それを批判するのはたやすい。だが、逆に、ごく当り前のことができる人の方が、じつは少なくなりつつあるかもしれない。

よく、こうした話になると、いま安倍内閣がやろうとしている教育改革や少年法を含む懲罰やお仕着せの制度を拡充しろという声になる。
 
だが、そうした強権を言う人たちの姿を見ていると、到底、当り前のことを当たり前にできているとは思えない。議員の経費の不正受給や前都知事の贈収賄疑惑…などなど。

政治家に限らず、一般の大人でさえ、大きな声で強権を言う人たちも叩けば埃やほころびのひとつやふたつはある。うまく周囲に強権を理解させ、説得しているようでいて、じつは、なにひとつ、本質的な人の理解やつながりを持ってない人の方が多い。

私は思う。守られない正義が多過ぎる。守られない、人権や尊厳が多過ぎる。

言葉だけの上滑りで、真実それを形にしようとする意志や決意や覚悟がない。詭弁やまやかしやごまかし、言い換え、取り繕いといったものが多過ぎる。できないこと、守れないことの現実を見ようとしてない人が多い。

範となるものがない社会では、倫理や道徳といった社会適応のための言葉やしくみは、人々から果てしなく無効にされていく。法や規範でさえ、その効力を意識の中で無効にされていくのだ。

社会の枠組みを保つための、社会という幻想が幻想に過ぎないとわかったとき、人は平気でゴミも捨てるようになれば、平気でいじめもやる。
 
懲罰や強権よりも、社会は幻想ではないということを伝え、大人自らが実現することが先だ。そのためには、日常の日常たる姿を示していかなければいけない。喪失していたら、再構築していかなくてはいけない。
 
大人がきちんとした日常を守れなくて、法や制度、情感に訴えたところで、なにも変わらない。

日常を守れない。育てられない大人たちが、じつは、すでに、ごみを社会に捨てている。