秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

名もなきもの

名もなき、防波堤のひとりのなろう。そう考えられる人は、いまこの社会に、この国に、どれほどいるのだろう。
 
名もなき、防波堤になるくらいなら、襲いかかる大波になった方がいい…そう考える人の方が多いのかもしれない。
 
名もなき、灯台守のひとりになろう。そう思え、行動できる人は、いまこの世の中に、どれほどいるのだろう。
 
名もなき、灯台守のひとりになるくらいなら、ネオンに照らされた喧騒の中で享楽するひとりでありたい…そう思う人の方がきっと多いかもしれない。

そして、名もなき、防波堤の自分もそのひとりであるようなふるまいを見せる
 
名もなき、灯台守のひとりとして、自分も暗闇を灯すひとりであるような装いを見せる
 
確かに、名もなき存在であることは、そもそも大欲にあふれた凡人にとって、決して楽な選択ではないかもしれない。

だが、それでも人が名もなき存在でありえるのは、守るべきなにか、照らすべきなにかのために、そこに存在すること、それ自体への誇りと使命があるからだ。

それは、自分の名声や富といったものを一番最後にして、守るべきもの、照らすべきもののために生きること、それ自体を喜びとできるからだ。

人は身近な家族、身近なだれには、それができるかもしれない。だが、そこから少し離れた途端、それができた自分が、途端に、邪に大欲だけの生きものになる。
 
名声欲、金銭欲、権力欲、性欲…それらの欲しいままに、防波堤たることも、灯台守たることも装いだけにしてしまい、姑息に、その欲を満たそうとする。

人なのだ。大欲があってもいい。だが、それを姑息に防波堤のひとりであるかのごとく、装ってはいけない。灯台守のひとりであるかのように、謀ってはいけない。

それは人を悲しませ、人を落胆させ、そして、防波堤たろうとするもの、灯台守足らんとする使命や誇りを汚す。汚すばかりか、その理想を求めて名もなき道を行くことの美しさと希望を奪い去る。

どのように欲に支配された生きものでも、その自らの姿を装わなければ、まだ、信頼もされ、生かされる道がある。

姑息な装いと人心を侮った言葉と行為が、いまこの社会に悲しみを溢れさせようとしている。