秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

カニバル

ご承知のとおり、「カーニバル」とは謝肉祭のこと。キリスト教の世界で、断食の前に、たらふく肉を食べ、肉よ、さらば…というのがその語源。
 
断食に入る前、禁欲へ向けた食肉とのしばしのお別れの儀式キリスト教の教義上の祭事ではなく、庶民の通俗的なイベントだった。
 
当然ながら、食・睡眠・性は動物の三大欲求。だから、カーニバルの期間は、性を楽しむという一面もあった。
 
ベネチアのあの妖艶な仮面カーニバルは、仮面を付けて身分を隠し、普段は社会的立場から性交渉の持てない相手と交わるために生まれたもの。
 
このカーニバルと同じ語源なのが、カニバル。カニバリズムだ。人が人の肉にを食べるという行為をいう。
 
ご存じのように、キリスト教の聖体礼儀やミサでは、キリストの聖体の代わりに、パンを、その血の代わりにワインを使う。
 
最後の晩餐でパンとワインを弟子たちに薦めるキリストの言葉が根拠になっているが、聖体・血・霊魂の三位一体が信仰するものに宿るという考えによっている。キススト教徒の方たちには、失礼な言い方になるかもしれないが、それはいのちにおいてキリストと結びつくことであり、性において一体になることかもしれない。

人肉を食らうというのは、それ自体、非人道的なことだ。大岡昇平の小説「野火」は、戦時中、飢えた日本兵が米軍の死んだ兵士の肉をそれと知りながら、サルの肉だと言い訳しながら食べる場面が描かれている。

究極の飢えの中で生き延びるために、海に投げ出された遭難者や飛行機の墜落事故で救助を待つ人間たちが、亡くなった同胞の肉を食べて生き延びた話はじつは少なくはない。
 
当然ながら、その非人道性を単に批判できない究極のところで、カニバリズムは起きる。そして、キリストが自らを投げ出して人類を救うという犠牲と願いも、その究極にある。
 
これまでも、カニバリズムは反社会的で、非人道的、そして反道徳的であるがゆえに、そこにある究極を描こうと映画の世界で題材にされてきた。ヒットしたサスペンス映画「ハンニバル」もそのひとつだ。

スペイン・ロシア・フランスの合作でつくられた「カニバル」。スペインの代表的映画祭ゴヤ映画祭で作品賞や監督賞8部門にノミネートされた。

グラナダで仕立て屋をやる男が、性的欲求を抱いた女性を性交するのではなく、殺害し、その肉を食べる。食べることで、実際の性行為の代償行為にしている。

その男が、ある日、殺害してその肉を食べた女性の姉と出会い、カニバリズムという反社会、反道徳、非人道の究極を越える、それ以上の究極と出会ってしまう物語。
 
いささかどんよりした映画ではあるが、いま北半球で大量の食材が捨てられ、また、その豊かな国で、格差によって社会からはじかれ、明日の食に困窮している人がいる現実。
 
アフリカで明日の食もなく、シリア難民キャンプで犬を殺して飢えを凌いでるいまの世界を思いかえされる。

豊満な食も、行き渡らない歪な食の現状も、そして、この同じ地球で、野良犬を殺して食べられなければ生きられない現実も、すべては反社会的、反道徳的、非人道的なことではないのか。
 
キリストが身を投げ出したのは、その先に愛をただ与えたかったからだとすると、私たちはその究極に、互いへの愛を与えられているのだろうか。