秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

中通り紀行2 不安と迷いの中で

中通りは広い、いや縦に長い…。二本松の里山から白河まで約1時と少し。
いわきのおのざきさんが仕入ている、高麗屋さんを一週間ほど前、急きょ訪ねることにした。おのさきのO社長さんもかけつけて、白河周辺以外でも知る人ぞ知るという絶品キムチの女性社長Sさんのところへ。
 
工場でお話をきいていると訛りが福島っぽくない。どこか九州っぽい。お話を聞くうちに、お生まれは韓国ながら、育ったのは沖縄。なるほど…と合点がいく。
 
手作りキムチのほか、飲食店も経営されていた。が、震災で手のつけどころもないほど、工場も店にやられた。息子さんのお子さんが奥さんのお腹の中にいた。水素爆発が起きて、とにかく、生れてる子どものために…と実家のある沖縄へ。
 
従業員の方たちも店を閉めるため、解雇せざるえなかった。
 
だが、2ヵ月ほどした頃、ほっておくこともできないと単身、白河へ戻る。再開への迷いも、これからの不安もあった。だが、何もしないでじっとしていることも耐えられなかった。
 
借金をして、工場を再建。やめたはずの従業員の方たちも戻ってきてくれた。そして、今年、飲食店を再開。それを知って、沖縄の人々に温かな応援をうけて、足場をつくりつつあった息子さんが戻るといってくれた。お腹にいた赤ちゃんは1才になっていた。
 
風評被害を越えるために、全国回っている。白河が稼動するにつけ、人手がない。東京で就職していたお嬢さんに声をかけた。そして、お嬢さんも白河に戻ってきた。
 
よく踏み切れましたね…。そういうオレの問いに、確かに、迷いはあったという答えが返ってきた。だが…。
 
東京での生活ができあがっていたお嬢さんも、沖縄で足場をつくりつつあった息子さんも、こういうときなのだから、家族がひとつになって、店を支えていかなくては…そう思ったという。Sさんが心労で倒れたこともあった。

Sさんはいった。「あのときの不安と迷い…。実は、それはいまも変わっていません。受け入れてもらえない…という現実もまだ眼の前にあります。不安と迷いの中を手探りで歩く…それはひとつも変わっていないのです」

実は、中通りの被災とその後の風評被害はよく知られているとはいえない。震災後すぐにいわき、会津と訪ねた帰り、郡山、須賀川、白河をまわった。倒壊した家、半壊した店、そして、半壊とはいかないまでも、再建や再開には試練があるだろう…そう思える家屋をたくさん見た。一般道路も平常ではなかった。

それに加え、放射能汚染の不安と共にある。
 
だが、息子さん、お嬢さん、若奥さん、そしてSさん。家族でこれを乗り切ろう…その確かな思いは強く伝わってきた。現実的に身近のだれかが亡くなる…ということがなくても、抱えた試練はそれぞれに重い。そして、同じように、それぞれの試練をそれぞれが乗り越えていく以外に、道はない。

そのとき、強く寄り添えるのは、家族、あるいは、家族のような他者との深い結びつきしかない。