秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

孤高のメス

昨夜、日曜洋画劇場で「孤高のメス」を放映していた。
 
パワーポイントで21日のプレゼン資料をつくりながら、あれこれ連絡確認が必要なことが次々に湧き上がり、途中で作業を中断しての視聴…
 
作品はプロダクション制作だが、東映の配給。試写室にいけば、無料で観れた映画だったが、封切り当時、何かに時間をとられていて観ることができなかった。東映の社員に入り具台を尋ねると満席状態だという返事がかえってきたのを覚えている。
 
漫画を原作とした、スーパードクターもののテレビドラマ化や映画化には、いろいろと思うところがある。娯楽として楽しむ分には問題ないが、この国の医療の現実を考えたときには首をひねることが多い。
 
大事なのは一人の超人的なスーパードクターの登場ではない。また、スーパードクターのような人に頼った医術、医療に期待する大衆にも問題がある。医療行政の課題は、地域間格差や所得格差によってへだてられることなく、平均化、平準化された医療をどう人々に届けるかのしくみと人材の養成だ。
 
スーパードクターの登場はそうしたあるべき医療行政の方向性とは逆行しているし、医療格差を生む元凶にもなる。
 
いい医療を受けたければ、金を払え…というのがこの国では声高にいえない。設備も人の養成にも膨大な資金を投入しなくては整わない医療の現実。にもかかわらず、コミックを原作としたスーパードクターたちは、おしなべて、個人で負担をかかえ、低廉な価格で医療を提供する。これでは医師の生活や労働が守られるはずもない。
 
確かに医療に法外な金を投じることのできない人々がいる。とりわけ、景気が低迷し格差が広がり続けているこの国では、健康保険証を持てない人間も生まれている。

しかし、その救済までも、医師個人の力に期待して解決しようというにおいがする、こうしたスーパードクターものには抵抗があるのだ。医療には闇の世界もあるが、それを糺していく上でも、できる奴に医療を押し付け、暗部をつくらせてしまうきっかけになる、一部の優秀な医師をとりあげただけの作品には疑問を感じてしまうのだ。
 
眼の前にいる患者、困っている人に医師としてできる最善を尽くす。それは医師に限らず、あらゆる職業、あらゆる人との協働では当然の倫理感だ。その倫理がこの国では政治でも、経済でも、教育でも、医療でも、芸術でも失われている。
 
人としての責任と役割を果たす。そこで困難があっても決して、先送りやごまかし、逃避はしない。その決意がこの国を立て直すためには、いま一番必要なことだろう。
 
医療行政の現実はおいて、この映画がいいたかったこともそれ。

そのことは、作品がスーパードクターを扱ったものであれ、映画として伝えるべき大事なメッセージではある。
 
そして、いわき市の協働プロジェクトにかかわるオレたちひとりひとりに問われていることでもある。
 
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