年賀状書き
事務雑務を片付けながら、年賀状書き。
2年から3年ほど、一切年賀状は書かなかった時期がある。年末年始に仕事が忙しい時期が続き、年賀状の手配と書く時間がなかったというのもある。
が、実は、以前から虚礼だと思うところもあったので、メールでの年賀が不思議ではなくなった頃から、ここぞとばかり、忙しさを口実に年賀状を書かなくしたのだ。
恩師やお世話になっているお客さまには失礼だが、年始はメールでのあいさつにしていた。ところが、それでもクリスマスカードや年賀状を送ってくださる方がいる。
ので、大変失礼ながら、送られてきた年賀状のみ、返信のように、年賀状を送っていた。
しかし、病気をして倒れてからだったろうか…。いつかははっきり覚えていないが、やはり、年賀はなんとかと心が変わった。遠方の方だからというのではなく、仕事などで普段、顔を合わせる方にも、お送りするようになった。
しかも、すべて毛筆で。今回はさすがに裏面は印刷にしたが、それまでは、意図して、毛筆。
これにしてから、本当に、お送りする相手の方の顔を浮かべ、そして、普段は口にできない感謝の思いや労をねぎらう思いが、文字にこめられるようになった。
別に文字がきれいなわけではない。カナ釘流だ。だが、毛筆だと、ペンのように筆圧をかけると、逆に書けない。力の加減がないとそれなりに読める字にならない。
だから、一枚一枚に集中する。集中すると、不思議と相手の方へのありがたいという思いがわいてくるようになる。と同時に、普段顔を合わせる人でも、いつもお世話になってますという感謝の思いがわいてくる。不思議だなと思った。
人のいのちも、人生もはかない。互いに、いつどんなことが起こるか変わらない。だが、手紙など長文での思いのやりとりがなくなり、メールでの短いやいとりが普通になった。
生きていたその人の思いを手紙でふりかえるということも、いまはほどんどなくなったのだ。ならば、せめて、賀状の文字で、相手への感謝を伝え、無事を祈り、そして、それが一期一会、今生の別れとなっても悔いない用意をしておこう。
そう思うようになっている。
おふくろが亡くなってしばらくして、節目節目の息子を心配しておくってくれた、ペン字の手紙の文字を読んだとき、そんなことを思うようになっている50過ぎの自分がいた。