うかれた大合唱
このひと月、感情や心情に支配された叫び声が大きくなっている。
脆弱な菅政権。しかし、その方がまだいいと、剛腕小沢よりも菅を選んだ国民。自公時代よりは、まだ、民主の方がましと、支持した大衆が、こぞって、民主離れを始めている。
大衆心理とは、いつの世も軽薄で、単純。決して、いますぐに中国やロシアの脅威が迫っているわけでもなく、まして、ほとんど尖閣諸島や北方領土に関心のなかった輩が、中国やロシアと聞いた瞬間、感情でムキになり、毅然とした態度を示せと大合唱を始める。
大衆にいたっては、日米安保については、何ら自主自立、自主独立との矛盾を語らず、沖縄の犠牲の上にいまがある現実にも目を向けようとはしていない。そのくせ、
中国、ロシアとなると、途端に旗色を変える。
簡単なことだ。アジア蔑視の中国人差別がその背景にあるからだ。ロシアにいたっては、1945年日ソ不可侵条約を一方的に破棄された恨みがある。つまりは、感情や心情として、中国やロシアは不快だからと、差別意識でキレているだけに過ぎない。
日本の主権などと、大声で叫んで批判しているのは、世界からみれば、抱腹絶倒。米軍の基地が当然のようにあり、地位協定とおもいやり予算によって、平身低頭、日本に駐留してもらっている。そんな国に、主権もへったくれもあったものではない。
差別やいじめ、排除を生むのは、自分たちと大きく異なっているからではない。自分たちの存在と似ているから、実は、極端な差別が生まれる。日本人が欧米人には寛容なのに、韓国、朝鮮、中国、フィリピンといったアジア系民族に寛容ではないのはそのためだ。
自分たちの土地と思っている場所に、敵対したロシアが、まるで日本人と同じように、漁をやりながら、そこにいる。その類似することが、日本人には許せない。
つまり、中国にせよ、ロシアにせよ、日本人は、どこかで自分たちと似ていると感じている。その感情が欧米諸国とは違う対応をという感情論になる。
かつて、アメリカとの戦争に突入したとき、大衆の一部の大きな声が伝搬し、それが大衆心理をうかれた戦争容認へと駆り立てた。
APECでの菅の軟弱外交をマスコミが囃し立てているとき、ほとんど報道されない広島で、ノーベル平和賞受賞者が集まり、平和の提言をした。
かき消されてはならない声は、いつも、そのように、世界の片隅に生きている。