ハラキリの美学
祈りや願いは、そうたやすく、人に届かない。
それでも、人の幸せや安全を人は、祈り、願う。
伝いえたい思いが届かなくても、届けられなくても、人の幸せや安全を人は、願う。
それがあれば、それでいい。そういう育ち方をオレは、した。自分の欲や願望ではなく、自分の欲や願望を越えることが、美しい生き方なのだと、教わり、そうできない自分に煩悶した。
だが、自分の煩悶は、自分で終わる。自分という中で、手榴弾を爆破させればいいからだ。
静かに、穏やかに、だれも知らない、気づかないところで、そっと手榴弾を爆破させる。それが、ハラキリの美学である。
Redで知り合った、フランス人が三島が好きだといった。北野たけしの「ドール」という映画が好きだといった。武士道に興味があるともいった。
後日、フランス貴族の奴は、それらを一部分、勉強し、オレにいった。武士道のハラキリは犬が死ぬようななものだ。like a dog と、オレに言った。その瞬間、こいつには、武士道も、三島も理解できていないと確信した。
もう怒る気にも、説教をする気もなくなった。
美学は、わかっているような気には、だれでもなれる。だが、その真髄をわかり、行動として実践できる人間は、そう多くない。
言葉で、美学はだれにでも語れる。だが、美学がわかるためには、身を賭して、人生を生きなければ、わかることはできない。
人の言葉ではなく、本の受け売りでなく、自分の言葉で語れるようになってこそ、黙して語らない、構えの中でこそ、美学は、人に伝わる姿になるのだ。
男の背中がものを言うのは、そのときだ。