秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

男ありき

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昨日、ふと思い立って、『GRAN TORINO』を観にいく。

前々からこの作品は観ようと決めていたが、なかなか時間がとれなかった。大阪の撮影が予定通りだったら、劇場へ足を運ぶこともなく、きっと、見損なっていただろう。

HPに映画や書籍の評論コーナーを設けているが、そこに紹介するほどでもない作品は、最近、このブログで取り上げることにしている。といって、この間、コテコテにけなした、最悪映画『おくりびと』と違い、『GRAN TORINO』が愚作だといっているのではない。

この作品は、ただ映画に行くというより、オレが、現存する人間の中で、映像クリエーターの中で、こいつは、男だと認めている数少ない、一人に会いにいっただけだからだ。しかも、彼の俳優としてのラストランの作品だ。これは観に行くしかない。

クリント・イーストウッド、その人の世界観や人間観、それに基づく、生き方の美学や作法、こだわりが、きれい事ではない、人間のドロドロした生活臭の中で、毅然と描かれている。イーストウッドが、自分の俳優としての最後の作品に、この作品を選んだこと、そこには、深い意味と思いがあることが全編ににじみ出ている作品だ。ある意味、イーストウッドの世界へ向けた遺言のような作品。

頑固で、口うるさく、世の中の間違ったことには、はっきり、間違っていると小言を言う、いまどき、姿を見ることもなくなった、病魔に冒された、高齢のオヤジが主人公。が、しかし、彼は、実は、他者への愛に溢れている。愛に溢れているがゆえに、口で言うほど、自分に絶対の自信があるわけでもなく、自分の弱さや愚かさも知っている。朝鮮戦争で理不尽に人を殺したという過去の傷もある。だが、自分の弱さや愚かさ、過去の傷に、自分なりの作法で向き合おうとしているから、他人に愚痴をこぼすことも、弱音を吐くこともしない。男たらんとして、その流儀を守り、背筋を伸ばし続けているのだ。

その終始一貫したブレのない生き方が、男に一つの死に方を選択させる。ハリウッド映画にありがちなオチでもなく、昨今の日本映画によくある、シャンシャンの緩い終わり方でもなく、ドスンと重い荷物を観客にくれる。イーストウッドの映画らしい。いや、これが本来の映画の姿だ。そう確信させてくれるラストになっている。

女、子どもにも見てもらいたいが、きっと、この78歳のオヤジが、老体に鞭打ち、自ら監督をやり、主演をやった、この映画の熱い思いは、なかなか伝わらないだろう。しかし、女、子どもになかなか伝わらないだろうなという思いを乗せているところが、イーストウッドらしく、また、彼が監督する作品の凄みでもある。

許されざる者』然り。『マディソン郡の橋』然り。『MISTIC RIVER』然り。どの作品も緩くない。そして、必ず、そこには暴力と愛との関係が描かれている。

人の不幸を売り物にしたり、死を描くことで作品に厚みや意味を持たせたがる、柔な日本映画では、観ることのできない、気骨や根性がある。ハリウッドを真似たCGばかりの作品や原作コミックに頼り、メディアの露出が多く、ミーハーなファンが集まりそうなキャスティングでよしとしている作品とは、まったく違う。ハリウッド映画は、それをやって、いま大赤字になっているというのに。このおバカな国の、おバカな観客と映画人は、いまでも終わってしまった夢を追い続けている。

この映画は、きっちり、実写をカットだけでつなぎ、写真を切り取り、そこに人間を炙り出す。映画として、当たり前のことを当たり前にやっている。有名俳優は、イーストウッドだけ。それでいて、英語のわかる奴なら、噴出してしまうほどのジョークがちりばめられ、が、東洋系移民が不良グループに暴行され、ボロボロになって帰宅する場面もある。ピュアな宗教精神、他者への思いやりなどと同時に、人間の邪さや愚かさ、暴力もきちんと描いている。人間の現実から目をそむけていない。毅然とした強さがある。

まさに、イーストウッドこそ、現存する映画人の中で、唯一、年老いてなお、狙撃兵たらんとしている男と言えるのかもしれない。映画を観ながら、ドンキ・ホーテを主人公にした、『ラ・マンチャの男』の舞台を思い浮かべていた。

男は、最後に、子どもたちに、愛する者たちに、死を通して伝えられることがある。自分のいのちをそのために投げ出せる愚かさが、男を男にするのだ。

死のときに、死の姿に、メッセージがない男は、悲しい。