秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

軽薄さが愛を教える

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物書きのMちゃんに、もう一度、観てみて、といわれ、TUTAKAに借りに行くのも、最近、はやりの宅配レンタルの登録も面倒で、結局、安かったから、アマゾンで購入した映画のジャケット。

俗に、連休前半といわれる、この時期、オレは、企画書を書き上げなくてならないのと、提出している見積の調整やら、明日、メインバンクに提出する事業計画書の準備とかで、1日までは、カレンダー通りに動かなくてはいけない。

この間、Mちゃんにぶち切れた、オレのささやかなお詫びで、少し前に、Mちゃんの寝込みを襲い、叩き起こし、花を届けた。この理不尽さ、一方的なお詫び。が、これがオレの作法と流儀だ。

で、まだ、寝起きの彼女と近くのコーヒーショップで、コーヒーを飲み、そのときに、彼女がレンタルしていた、ウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』を借りたのだが、ウッディ・アレンは、オレたち世代の同時代映画。過激で、えぐい、アメリカン・ニューシネマが下火になり、公民権運動が終わった頃、チンチクリンで、あんぽんたんな、ニューヨークのマンハッタンやクイーンズ、ブロンクスを舞台にした、ヘンだけど、ありがちな、ニューヨーカーの生活を、コミカルに、ペーソスたっぷりに描き、登場してきたのが、全然女にもてそうにもない、軽薄短小のアレン。

それを知らないMちゃんは、ユダヤ人だから嫌いかもれないけど、と貸してくれた。『ボギー!俺も男だ』『インテリア』『マンハッタン』『私の中のもうひとりの私』『CIAの男』『おいしい生活』『スコルピオンの恋まじない』など、オレが、観まくっていたとは思わなかったのだろう。

ニューヨークは、高校生の頃から憧れていて、その理由は、IVYファッションやコロンビア大学の学生紛争を描いた『いちこ白書』の影響もあるが、実は、オー・ヘンリーという作家の短編を読み出したからだ。以来、雑誌ニューヨーカーを読み、ショートストーリーのおもしさに目覚め、異色作家短編集やらを読み漁り、ニューヨーカーのイっちゃってる感じにやられていた。だから、アレンが登場したとき、日本のマスコミが騒ぐほど、オレは、驚かなかった。その世界を文学では知っていたから。ああ、あれを映像にする奴が出てきた、という感じ。でも、先越された感もあり、ビジュアルで観た方が、それはおもしろい。で、はまったのだ。

前々から、Mちゃんは、古い映画が好きだなと思っていたが、そのとき、ふと『存在の耐えられない軽さ』の話になり、じゃ、久しぶりに見てみるかとなったわけ。

オレがまだ、コテコテのサラリーマンをやっていた87年に制作された、アメリカ映画。オレはDVDで、独立して事務所を始めた頃に観ていた。オレが観てからも、20年近く経っている。出演しているのは、いまやフランス映画の大女優になり、『トリコロール 青の恋』や『ショコラ』でも知られる、ジュリエット・ビノシュ。『ショコラ』でも共演している、エロな役がうまい、レナ・オリン。主演は、『ラスト・オブ・モヒカン』やデカプリオの敵役を演じた『ギャング・オブ・ニュヨーク』のダニエル・デイ・ルイス。セックス好き、女好きのイっちゃった眼がいい。ワルが顔に出ている。

作品は、オレたちの時代、一瞬にして、終わった68年の「プラハの春」が、大きなテーマになっている。チェコ出身で、「プラハの春」以後、フランスに亡命した、ミラン・クンデラが84年発表した小説が原作だ。68年当時、ソ連の軍事介入に市民が立ち向かい、流血の惨事となり、その後、ソ連の傀儡政権によって、市民の自由が奪われた。当時、「プラハの春」を描いたドキュメンタリーや映画は、オレが高校生になった頃、上映され、その理不尽さに多くの日本の若者も怒りを感じた。トロツキー反革命分子にされ、暗殺された後のソ連の真実が、「プラハの春」だった。その後、ベルリンの崩壊で、チェコの自由を売ってきた、独裁政権は、市民の手で、処刑されたのだが。

そんな政治の季節に、軽薄に生きている外科医と二人の女との恋物語

あの頃は、オレたちの先輩を始め、オレたち世代も、政治と無関係には生きられなかった。そこには、いろんな奴もいたし、いろんなことがあった。しかし、振り返ってみれば、すべてがすべて、政治にかかわりを持とうという自発的な意欲で、参加したのではない。ある意味、いい加減に参加した奴もいるし、なんとなく、参加した連中もいる。ただ単に、軽薄で 自由な生活を守りたいだけのために…。だから、若い世代にありがちな、軽薄な恋愛事件もおきたし、それを軽薄だとは思わずに、悩んでみたりした奴らも多い。

しかし、所詮、人間なんて、そんな軽薄なものでしないのだ。あるとき、マジになり、あるとき、それを忘れる。ただ、自分が拠って立つものが、いかに不安定で、いい加減なものか。自分を取り囲む世界が、
生真面目な連中がいうほど、正義や真実にあふれているものなのか。自分自身、そんなに確たる存在として、ここにあるのか。その不信と疑問だけは、確かな感触として、残る。だから、どこかに、確かな居場所を見つけようと、あがくのだ。

この映画は、それぞれが自分の居場所をみつけたところで、結婚していた二人がやっと、ここだと思ったチェコの田舎で、自動車事故で亡くなってしまうところで終わる。居場所をみつけられた、つかの間の時間も、永遠に続くものではない。それほどに、宇宙から見れば、人間は軽い存在でしかない。

しかし、居場所を見つけられるということのために、その軽薄さを懸命に生きるとしたら、それも美しい。

正義や倫理や道徳だけで、人は生きられない。軽薄であることの、その確かさだけが、人にある普遍的な真実を教えてくれる。

オレはよく講演などでもいう。
人は人を傷つける存在であり、人を殺す存在だ。その前提に立って、つまり、その軽薄な存在であるという自覚に立って、世界を、社会を、自分の生活をみつめることが、大事なのだ。

それができない人に、愛はわからないし、見えてこない。