びんぼう神様さま
新しいことに挑戦するというのは、骨も折れるし、物心両面で苦労も多い。
著名ナレーター、津野まさいさんが主宰する朗読会は、今年で三回目。
20年ほど前、仕事で出会って以来のお付き合い。ナレーション取りの合間にプライベートな話をするようになり、津野さんが、超映画好きだということがわかって、互いにお薦めの映画の情報交換をするようになっていった。
この数年は、オレの映画の試写会にも、朗読会のプロデューサー、Sさんと一緒に顔を出してくれてもいる。
朗読会は俳優の勉強になる。いつも知り合いの役者数人に声をかけるのだが、大方バイトや仕事でスケジュールが合わないことが多い。昨日もそうだったが、CMの撮影で微妙だといっていた小町が撮影が一日延びたとの連絡。ならばと同伴する。
題材はまちまちだが、津野さんの朗読会には、一貫したテーマがある。人が生きる上での大切な願いや思い、それを一つの人生ドラマの姿を通して、伝えようというものだ。
その巧みな朗読のテクニックもあるが、取り上げている題材が素晴らしく、いつもジーンとさせられたり、教えられたり…。昨日も、窪田さんの浅田次郎作「青い花火」の朗読には、ふと福岡に暮すオヤジのことや祖父のこと、息子のことを思い出し、思わず涙が溢れてしまった。
朗読の舞台が、オレが生活圏にしている広尾、西麻布、イチョウ並木を題材にしていたのも大きい。戦後、広尾にあった三代続く写真館の話。
津野さんの主宰する朗読会は、声を出さずに涙がじんわり溢れてくる。そんな朗読会。
津野さんが朗読の題材にしたのは、「びんぼう神様さま」(高橋洋子作)。これが教えに満ちていた。
貧しい家に住みついた、あるびんぽう神が、その家の夫婦に、ありがたいと神棚に祀られ、家から出れなくなる。当然、びんぼう神は居心地が悪い。その夫婦は、貧しいから得られる貴重な体験のひとつひとつに、ありがたいと手を合わせているのだ。
そこから話が始まり、びんぼう神も、夫婦も、そして村人までが、苦しさの中で学び、貧しい中にも幸せを得るという話。仏教の「足りるを知る」という教えがベースになっている。
他人と比較して、貧しいと不平や不満をこぼすのではなく、いまこうして家族が共に生きられ、働ける健康をいただいていることがありがたい。貧しいからこそ、物を大切にする心や食べ物を大事にする心が育てられ、ありがたい…。
物の見方、とらえ方で、自分はこんなにも恵まれていて、ありがたいと手を合わせることはできる。互いに助け合うことでえれる絆やその喜びを感じることができる。
女手ひとつで子どもを育て、子どもが成人したと思ったら、母親の介護に追われた津野さんの演目らしいと思った。そして、仕事や生活に追われる中で、こうした試みを続けることの大変さも伝わってくる。
うちの会社も、昨年後半から転換期を迎えている。それを感じているからこそ、今期、自主作品六本という大作も手掛けた。映画の企画の取り組みも具体的に始めなくてはと動き出そうとしている。
あれこれやりたいとこ、実現したいことがあると、ふとオレも、金さえあれば、時間さえあればと、条件が整っていないことに、溜息を漏らすことがある。
すべての条件が整っていない中で、次のステージを切り開くために、何事かに取り組むときに苦しみは付き物とわかりながら、いざ、その苦しみに直面すると、見栄や体裁で、その苦しみを分かち合うこともできなくなる。
それは、オレ自身が、いまを生きていることへの感謝と喜びが足りないからではないか…。苦しさをありがたいと思える心が、まだまだ育ち切れていないからなのだ。
正直じゃない。村娘の言葉が、津野さんの朗読を聞きながら、ビンビン響いてくる。