秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あなたと私のダンディズム

かつて、ダンディズムという言葉があった。

 

いまでは死語だし、ジェンダーからいっても、男性に使われて来たそれは、使われた方によって、いまでは男性性や女性性における差異を助長し、差別になるものだと言われるだろう。

 

だが、ダンディズムを言い換えれば、「あたなは何にこだわりを持ち、そのこだわりを生活の中でどう形にし、それに似つかわしい生き方をどう実現しようとしているか」の尺度のことだ。

 

生き方の尺度、基準、あるいは価値観や美意識と言ってもいい。ダンディズムという言葉の表層に惑わされていると、つまらない誤解が生まれる。

 

そもそも、ダンディズムは、ジェントルマン社会の対極にあるもので、イギリスでは自分の見掛けばかりに執着する軽薄なナルシストとして蔑視されて使われていた(背景にはイギリス階級社会の階級の住み分けの対立があるが、いまは詳細は省こう)。

日本で使われるこの言葉は、フランス革命後、文学者の中から生まれたイギリスの騎士道や貴族文化の価値観や美意識への憧れが生んだもの。

革命で低俗や通俗なものとされていたものと、貴族的なものが入れ替わり、階級社会があることで保たれていた美意識が粉砕された。いわゆる本物がことごとく否定された結果、じゃ、本物って何?というコンフューズが知識層を困惑させたのだ。

たとえれば、明治維新で貧乏な下級武士や郷士、その下男たちが、貴重な文化財をことごとく非西洋的として廃絶したのと似ている。

文化がわらかず、西洋かぶれの伝統美を知らない輩の愚行が愚行ではなくなり、教養以前の駆け引きや要領のよさ、つまり、低俗、通俗さだけで、出世もできれば、権力者や金持ちにもなれた時代、のようなものだ。

その困惑と不安がフランスの知識人をイギリスの騎士道や貴族文化の知性の高さと堅牢さへの憧れ、ノスタルジーを生んだ。革命前のフランス貴族にはそれらが失われていたのもある。この変形したダンディズムへの理解がそのまま日本に持ち込まれた。

だから、イギリスのそれとは違い、フランス、日本では、孤立、孤独でも、孤高を放ち、「何にこだわりを持ち、そのこだわりを生活の中でどう形にし、それに似つかわしい生き方をどう実現しようとしているか」の尺度を持つ人間をダンディ、かっこいい人と理解するようになったのだ。

 

自分の生き方としてだけではなく、何のために、誰のためにそうあらねばならないのか。孤立無援でも、誇りや矜持を持ち、守るべきもののために生きれるかの問いがダンディズムを生きる人間の必然的な問いになった。

 

日本では、新渡戸稲造が示したように、武士道精神の文化的背景と歴史がこれに共鳴して、社会や組織のリーダーが備えるべき人格の重要な要素のひとつにもなり、高い倫理感に基づく、行動力とそのための知識教養が求められるようになる。


だが、残念なことに、このダンディズム、日本が成熟した消費社会へと向かう過程の中で、イギリスのジェントルマン社会から蔑視されていような見掛けだけのものに先祖返りしてしまう。

 

いわゆる、ミーハー文化に低俗化した。高級ブランド品をそれに見合う人間ではなくても所有でき、それらしい風に外見を装うことを恥としなくなったからだ。

背景に、低俗、通俗な連中が高度経済成長からバブル消費経済へ向かう過程で、社会の表舞台にのし上がるチャンスを得たことがある。

のし上がった彼らは、バブル後の低成長経済の中でも株を転がし、利権を使い、既得権益を守ることで、経済的な豊かさ、格差の頂点に居座り続けるようになる。あるいは、そうした輩を支える汚い仕事を請け負う連中が増殖する。

ダンディズムが死語になった頃から、この国から社会規範、倫理、道徳といったものが希薄になり、利他から自己中へと社会は変容した。

そこに警鐘を鳴らしたのが、実は、自決した三島由紀夫だった。

そして三島の死から50年後のいま、三島が予見し、警鐘を鳴らしたように、この国は、治世者なき国、リーダーなき社会へと見事に三島の不安を的中させている。

一国の首相の不正が暴かれず、政権閣僚、取り巻き官僚が甘い汁を吸い、国民の血税を食い物にする。そこに群がるアホ学者やバカ知事、コンサル、企業とそれを支える闇集団は利権を得て、国政にまで口を出す。マスコミは腑抜けとなり、これを批判するどころか無言を決め込む。

社会の重要な立場、果たすべき役割を担う人間たちが、国民生活の何たるかを知らず、また見ようとも、知ろうともしない。

一重に、ダンディズムの死語化と貴族的なもの(エリート)と低俗、通俗の入れ替え、はき違えが生んできたのだ。

もちろん、貴族的なるもの(エリート)ですら、問題がある。ジェントルマンの顔をして、名作『夜の訪問者』に描かれているように、低俗を生きる者たちも少なくない。

本物であろうとする人間の絶対数の少なさは、高貴なるものも、低俗なもるものにも等価だ。だが、範を示すべき、人間たちにそれが失われば、すべてが低俗、通俗なものへ堕落する

コロナ禍で幕を開けた1年がもうすぐ終わる

今年は、意識するにせよしないにせよ、すべての人に問われた年だ。そして、その回答を出さなければ行き止まりしかない来年がやってくる


「あなたは、何にこだわりを持ち、そのこだわりを生活の中でどう形にし、それに似つかわしい生き方をどう実現しようとしているか」