秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ダブルクラッチ

物事が人との協働作業がうまくいっているとき、ぼくは、いつもこんなふうに思う。

 

「ああ、いい具合に歯車がかみ合っているなぁ…」。

 

歯車がかみ合うというのは、こちらと相手の願いや期待、希望が共有され、同じイメージを共有していることが感じられることだ。平たくいえば、志を共にしているという実感だ。目指す動きがシンクロしている状態だといってもいいだろう。

物事を動かす動力が志だとすれば、どの動力を伝え、実現へ向けて形にしていくのが歯車のかみ合い具合だ。

 

自動車がぼくらの生活に大衆化していく頃、いまのAT(オートマテック)車というものはなかった。ギアを手動で換えるMT(マニュアル)車だけだった。

ギアや車両の精度や質もあったと思うが、車が古くなるならないかかわらず、ギアチェンジするときにギアが滑り、変速がうまくいかないというケースもままあった。

ギーといやな音が響き渡ることも多かった。これは高速より低速の方がエンジンの回転数が上がるので、ギアを急に入れ替えるとエンジン回転にギアがついていけずに、うまくかみ合わないためだ。

ダブルクラッチという運転技術は、カーレーサーが始めた手法だが、運転好きの奴は、減速するときに、一度、ギアをニュートラルにして、そこから減速するギアにシフトチェンジする。そうしないと高速から減速するとき、ギアを壊してしまう。

ぼくはエンジンブレーキ好きで、MT車でも減速するときセカンドにギアを落とす。あるとき、横に乗っていいた友人の男性ディラーから「ギアが壊れるから!」と文句を言われたのを覚えている。だが、現在のMT車は自動制御装置が完璧。ダブルクラッチを自動でやってくれる。ギアが壊れることはない。

いまぼくらの社会、世界では、かみ合わないギアの音があちこちで鳴り響いているように思う。


ギアシフトが壊れる嫌なノイズも社会を世界を覆っている。

 

それは人と人の関係から、人と組織、組織と組織、地域と国、民族や人種、そして、国と国の間でも…

ダブルクラッチを踏んで、回転数を互いに合わせるという知恵やゆとりがないからだろう。しかし、それは、社会が国が、そして世界が理想へ向けてシンクロしない、残念な時代へと向かう道を示しているとはいえないだろうか。

けれど、社会や国、世界がそうでないからといって、ぼくらひとり一人までもがそうある必要はどこにもない。もちろん、社会や国、世界のいまをつくっているのはぼくらひとり一人だ。

だからこそ、そのぼくらが身近なところから互いの歯車をかみ合わせ、志を重ねていけば、ダブルクラッチの知恵や技術のない愚かで、どうしようもない世界も変えることができるはずだ。


すべるクラッチののれんに腕押しといった歯ごたえない、いつ操舵不能となるかわらかない不安を生きるより、手に伝わる確かなギアのかみ合った感触を味わうほうがどれだけ安心で心地よいかわらならない。


そこから、始まるのだ。「ああ、いい具合に歯車がかみ合っているなぁ…」というあるべき社会、国、世界の一歩が。