秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

困ったちゃん 困ったくん

世の中には、困った人がいる。

 

かつて、それはKYなどともいわれた。周囲の空気が読めない人ということだが、いまどきの困った人は空気が読めないだけではない。

 

やたら、正義を振りかざす人やさして知識もないのに、あるがごとき錯覚をしている人、表層的にしか物事をとらえられない人たちだ。そうした人たちがテレビに毎日のように登場し、無邪気に私見を垂れ流す。

 

テレビはドキュメンタリーや映画しかみない人間になったのは、マスコミが垂れ流す報道の軽薄さ、なんとか評論家の底の浅さに辟易したからだ。

 

「マスコミの劣化はこの国の政治家・官僚の劣化に等しい」という悲しむべき公式が誕生している。

 

ところが、多くの人はそうでもないらしい。いま、情報操作という言葉が大流行りだが、この国の多くの人がその情報操作によって、情報操作されていないものを社会からあぶり出し、たたき、打ちのめす。

 

ひどい世の中になったものだと嘆息をもらしながら、自分自身がひどい世の中をつっているひとりであるという自覚がない。それがこの国の国民の正体だ。

1959
年に上梓された、三島由紀夫の評論・随筆に『不道徳教育講座』(角川書店刊)がある。

講演会やテレビインタビューなどで軽妙洒脱に語る三島の口調がそのまま文体になった本で、既存の価値観に縛られて、画一主義、前例主義で保身に走る、この国の官僚機構や企業、組織の古めかしさを鮮やかに切っている。世間という実態ない同調圧力がこの国をダメしている指摘もこのときすでに三島はやっている。

いまの時代に息苦しさや嫌気の差している人にはぜひ読んでもらいたい。

その本の上梓から10年後、三島は自決するのだが、天皇制と憲法改正、軍隊の創設をいった三島が、古い道徳感や倫理観を吹き飛ばす軽妙な評論・随筆を書いているのが理解できないという薄学の人も多い。

 

だが、三島の中では一貫している。三島がこだわったのは、失われていく、この国の禁忌性だ。

 

禁忌性とは、侵すべからずもの、犯すべからずなもののことだ。逆の言い方をすれば、畏敬、畏怖すべきもの、触れてはならないものと言ってもいい。

 

三島が伝統文化や土俗的な地域性・地方文化にこだわったのも、そこに禁忌性の領域が残されているからだった。踏み込んではならない領域、場所。それは結界の張られた森の一隅であり、神社や海の岩礁に立つ社といった祭事の折でもなければ、その神髄に近づくことも立ち入ることもできない存在だ。

 

それらを軸としてつくられる秩序や伝統文化だ。

 

実は、法と法制度、その根幹をなす社会倫理や道徳とは、この禁忌性を拠り所として成立している。

 

禁忌性が失われることで、社会秩序や倫理、道徳、規範といったものが溶解し、歴史の中でつくられたきたその土地、その国、その社会の姿までもが崩壊する…。その危機感が三島に真正天皇=神としての天皇の必要性を切迫させた。

禁忌なるもの、畏怖と畏敬の存在。その最たるものが、天皇だったからだ。真正天皇の復活が独立国家としてアメリカと決別する唯一の道だと三島は考えていた。それは、日本国の文化基盤の回復と三島の中では等価だったからだ。

異議はあるにしても、思考の流れと壊れゆく日本社会と文化を立て直そうとする意志と覚悟において、ぼくは三島を否定しない。否定してはいけないと考えている。

いま、この国には、困ったちゃん、困ったくんが溢れ返っている。それも民の安全と生活を守るべき、政治の中枢、経済の中枢にはびこっている。

 

それは三島が指摘した、禁忌性の喪失が、国をつかさどる政治家、官僚に始まり、経済界、民衆にまで、後戻りのできない崖っぷちまで浸食しているからだ。

禁忌性は排他や差別、階級制といった矛盾もはらんでいるが、そこを新たな知恵で克服し、あるべき秩序と社会倫理を組み立て直すときをぼくら国民は迎えている。

 

コロナ禍は、困ったちゃん、困ったくんを一掃しなければ、この国、世界に未来がないと教えているのだ。