秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ソーシャルディスタンスとウェルフェア 超克の時代

他者との関係性をどう生きるか…それが有史以来、人類が絶えず直面してきた課題だ。

人と自然、人と人、人と集団、人と地域、人と社会…。その関係のあり方は、国家形成に深く関与している。これらの合意された関係性で国家はつくられているからだ。

また、関係性を保つために創造され、承認された国家基盤が、異なるそれらとの関係性、つまり、これを多国間と保てるか、保てないかの基本因子にもなっている。

税のしくみをもとにする国家と民との契約もここから生まれている。

民は公民として国家に納税し、同時に、国家はその貢献に見合う、生活と安全を公民に補償する、ウェルフェアの概念は、ここから誕生した。人々の公民としての国家への貢献は、国が補償する社会福祉と表裏一体で生まれたものだ。

仮にこの契約が守られない、反故にされるということが起きれば、民は国家に対して、公民としての義務を果たさなくなる。

場合によって兵役という形で、人々は国に貢献することで税を軽減、免れることもできた。契約が反故にされれば、納税を放棄するだけでなく、人々は国のために戦うことをしなくなる。

他国との戦争とは、いわば、異なる合意によってつくられた他国と維持できていた関係が破綻したことを意味する。それは、つまり、自分たちの国と民との契約が、異なる合意によってつくられた他国によって反故にされる危機に直面しているということだ。

これを守るための戦い。それゆえに、人々は兵役に自ら順じ、参戦した。にもかかわらず、自国によって反故にされるなら、戦うことそのものの意味を根本から失う。

つまり、納税の義務は契約上成立しなくなるし、公民として国家を維持するための兵役の義務を果たす必要も生じない。

契約なのだから当然のことだ。

国家への帰属意識や公民意識はこれを背景に形づくられ、その延長に「愛国心」なる不確かなものに一定の幻想を成立させてきた。それが、中世から近代、そして、現代への歩みであり、その強化にって、現在の国家という枠組みの集まりである、「世界」は形づくられている。

今回の新型コロナウィルスによる世界規模の感染拡大は、この問題を改めて、世界中の市民、国民、そして治世者たちに突き付けているのではないかとぼくは考えている。

15世紀から16世紀にかけたペストの大流行は、今回の新型コロナがもたらすであろうと想像されている社会変容と同じく、まったく新しいステージを世界に提供した。

 

ロシアに象徴されるように、民の大部分を占めていた農民は、ペストによってもたらされた生活苦で国家の契約反故に反抗できず、生活苦のまま農奴と化していく。

だが、一方で、「マグナ・カルタ」で王への帰属から自由を勝ち取った経験のあるイングランドでは、人口減により、農地を預かる小作農民が貴族に抵抗し、農業の維持を盾に独立自営農民の地位を確立していく動きが生まれた。

 

引いては、これが貴族社会を崩壊へ導き、産業革命につながっていったのだ。農奴と化したロシアの農民は、貴族エリート集団とつながって、その後ロシア革命を実現する。

いずれも貴族の崩壊。


こうした変化、あるいは革命は、間違いなく、新型コロナ禍によってもたらさせるだろう。これまでの国家と民衆の契約が変わるからだ。変えざるえなくなるからだ。


なぜなら、ペストの例からもわかるように、現状のしくみのままでは、国家と民衆の双方において、新たな合意形成がなされなければ、労働人口の減少、ソーシャルディスタンス時代のその後、次を生きられない。その中でのウェルフェアの提供もできない。

労働人口流動性、企業活動のグローバライゼーションが世界の先進国を底辺で支えてきた、新自由主義を基本とする現代資本主義社会において、ソーシャルディスタンスは致命的な弱点を露呈している。

自国ファーストが世界を覆おうとする矢先、新型コロナによる感染拡大が地球規模で起きたのは、何か見えない力の存在さえ感じさせるほど皮肉なタイミングだった…そう感じる人は少なくないはずだ。

人が人との一定の距離を保つという生活は、人々の生活意識、帰属意識、公民意識の在り方も変えていくし、現実にすでに変わり始めている。距離を保つことで成立する生活スタイルがあると考える人、距離を保っていては、生活ができないと痛感している人…


いずれも、どうこれまでとは違う人との間合い、関係をつくればいいかの問いに直面している。それは冒頭で述べているように、人と国、国と国の関係にまで広がっている。

距離を保ちながら、それでも帰属意識、公民意識をどう成立させられるのか。成立させるための社会保障をどのように提供していくのか。

治世者も、民衆も自らの問いとしていかなければ、この過酷な現実の次を見ることはできないだろう。それは、治世者自身が自らを超える能力があるかどうか。民衆が自ら、これまでの権力依存を乗り越え、蜂起できるかどうかにかかっている。

ニーチェが言う超人となれる自己超克を果たせる人がどれほどいま世界にいるか、それが問われている。