秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

デクノボーになれないデクノボー

この世に生まれてきて、自分が生きたという印がほしい。証を持ちたい。それを知る人、認める人がいてほしい。できれば、たくさん…。

 

人は生まれながらにして、自己承認の欲求を持っている。

 

それは、乳飲み子や幼児がそうであるように、生存のためであり、思春期の子どもが親や教師、周囲の大人たち以上に、同性、異性から認められ、仲間として受け入れてもらえないと学校生活もままならないように。

 

社会に出て、自分の仕事や能力が評価されないと愚痴をこぼしたり、落胆したり、焦ったり、恨んだり、明日への希望を失くすように。


だから、人はいろいろなことをやる。いろいろやる中で、失敗し、挫折し、傷つく。他者や組織、世間の評価を得るのは、容易いようで、じつは、難しい。

 

かつてのように、人と人のつながりが深く、生活の場も情報も限られた世界では、狭い関係性やエリア内でそれが満たされることもあったが、いまはそうはいかない。情報化の中で、自分が思うように、自分という人間を認め、受け入れてくれる場や機会は多いようで、世界が広大過ぎるがゆえに難しいのだ。


その中で承認の感触を得るには、情報化社会に対応するリテラシーやそれに適応するコミュニケーション能力、知恵がないと、簡単ではない。


かといって、そうした能力はだれにでもあるわけではない。しかし、じっとしていてもそれは向こうからはやって来ない。そこで、大きく分けると二つのどちらかを人は選択する。している。


ひとつは、失敗や挫折の傷をひたかくしにし、笑顔で元気で明るい姿を代替えにして、場合によって男女を問わず、外見や容姿、性的なもの、お笑い芸とかいったものを使い、違う形で承認をもらい、自分の居場所を得る。

 

もうひとつは、自分と同類、あるいは従う者たち、つまり取り巻きをつくり、リテラシーやコミュニケーション能力の欠如をうまくごまかし、要領よく、らしきもの、のようなものとして居場所をつくることだ。

場合によって、そこには、物、金、地位、名誉、社会的な肩書といったものをばら撒き、取り巻き集団からさらにその取り巻き集団へと、承認される世界を拡大していく。


だが、いずれも底が浅い。

やっているうちに学び、身に付け、いわゆる知的にも向上していけばいいのだけれど、そもそも学ぶことがいや、苦手、学を楽しむ、学で苦しむということをメゲずにやることができないと、底の浅いまま、やたらあれこれ手を出し、弄り回し、余計なことをやらかしてしまう。

あたかも、いろいろやっていることそれ自体で承認を得られるかのように。つまり、小さな親切、大きなお世話をやらかす。だが、大きなお世話、やらかしていることの無為無策に気づけない。


宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』の詩に、デクノボーという言葉がある。何の役にも立たない人形のような存在、「木偶の坊」と書く。

無為無策で、他者にも、世間にも、社会にも、国家にも役に立たない、存在意義のない存在。だが、それでいながら、賢治のいうデクノボーは、正直で、憎めない。

 

東奔西走して、人々の役に立とうとしながら、何もできず、救うこともできないのだが、寄り添い、言葉をかけるだけで、余計なことをしない。小さな親切 大きなお世話はやらない。なぜなら、自分を知っているからだ。そして、世間に認められたいとか、名声を得たいとか、金持ちになりたいとか思っていないからだ。

とかくに、承認欲求の強い人ほど、世間の眼や周囲の評判、噂といったものを気にかける。気の毒なくらいだ。だが、その結果、他者からの承認の前提となる、「自分」を築けない。判断もできなければ、決断もない。風に左右され、時々の流れに竿刺される。


つまり、言葉通り、文字通りの木偶の坊。賢治のいう、デクノボーになれず、かえって、世間、社会、世界をガタガタにさせてしまう。


今日、その典型的な人物が、2か月以上ぶりに記者会見をするらしい。無為無策であれば、まだ許せるだろう。

しかし、この国の首相がやってきたことは、知性のない人間ばかりを取り巻きにし、そこで得られた承認をすべてとして、ぼくらの生活をひっかき回し、法制度そのものを裏切り、刑事罰当然の案件をスルーし、歪曲し、国民の血税無為無策のために世界に無断でばら撒いてきた人間だ。

だが、こうした人間が首相でいられて来たのも、一重に、ぼくら国民が承認病にかかって、世間の風だけで生きているからだ。



あうんの呼吸と知らない素振り

初対面の場合は一層だが、親しい関係の他人であっても、あるいは家族のように頻繁に顔を合わせる人間同士でも

 

人は常に、人の素振りに目をやっている。

 

相手はどのような人なのか、何を考えているのか…。言葉にはならない、素振りから、その人の資質や性分、いまの気分まで人は知ろうとし、また相手も知ろうとしている。

よく知る者であれば、自分がこれまで知っているその人である確認をとろうと、いつもと変わらぬ素振りを示しているかを探っている。そのとき、その瞬間の気分や様子を知るために。


素振りをいかに、セリフ回しやちょっとした所作、ふるまいの中に組み込めるか。しかも、違和感なく。じつは、芝居の演技にとって大切はなものは、そこにある。

 

ぼくは、舞台でも映画でも、演技の余剰、過剰を役者には特に諫める。理論としてあるのは、主に世阿弥の『花伝書』とモスクワ芸術座のリアリズム演劇を確立した、演出家スタニフラフスキー『俳優修業』から得たものだが、舞台の演出、映画の監督の現場、自分の仕事以外の舞台、映画にふれてきた経験やそこから学んで得たものも大きい。

 

余剰や過剰な素振りをぼくが強く諫めるのは、明確にそうだとわかる素振りを人は普段、決してしないからだ。

意識したしぐさ、所作としてではなく、無意識で、生理的なふるまいこそが、素振りであり、年齢にかかわらず、才能豊かな俳優は、こちらで細かく指示をしなくても、あるいは、指示をしたとしても、わずかな修正でそれができる。

まさに、あうんの呼吸で、少しのやりとりや「そうじゃない」「そっちじゃありません」とぼくが短く指摘するだけで、見事にこちらの求めに応えてくれる。


たとえば、武道がわかりやすい。

 

対戦する相手の息遣い、手や指の動き、足の運び、目の動き…といったわずかな所作から相手がどう動くかを読む。それは観察力、推察力、読心力だ。人が人と向き合うとき、それがなくては、双方にいいコミュニケーションは生まれない。相手の考えていること、望んでいることが見えないと人の会話はぎくしゃくする。

人は言葉だけでは伝えられない、あるいは、言葉にできない何かを素振りという信号で発信し、心の奥深いところで、それを受け止めてもらいたいと願っているのだ。

 

それを読み取ることを普段から意識していないと、自らが演技としてそれを表現しようとしたとき、うまく形にできないのだ。


ところが、いまぼくらは、この素振りに知らんふりをすることに慣れて来ている。あるいは、素振りの信号を読み取れない人が増大している。


理由はある。ひとつは、自分の素振りは読み取ってほしいが、人の素振りを読み取る力がない。成育歴の中、学校や地域教育の中で、それを教え、訓練させる人、場がなくなっている。

 

また、ひとつは、現実の問題や課題、自分が向き合わなければいかない現実を曖昧にしたいからだ。人は困難や苦難に直面すると、不安になる。その不安から逃れるために、意識も思考も撤退してしまうという心理的習性がある。

いじめ、不登校、ひきこもり、夫婦の不和など、不協和音の鳴っている家族がそうであるように。コロナ禍以前からだが、コロナ禍の中、ますます増えているシングルマザーや子ども、単身女性の貧困や生活苦といった社会的問題もそうであるように。

あるいは、機能しない政治や手前勝手な経済政策、コロナ対策の稚拙さといったことも、いまこの国が直面しているあらゆる課題を曖昧にしているように。

疑問視や直視を避け、知らない素振りをするテクニックとごまかしだけが巧みになっている。問題には知らない素振りをしながら、そこだけは、みんながあうんの呼吸で素振りを読み合っている。

「日本人はよく怒りませんね。中国だったら、とうに暴動が起きていますよ」。いまの話ではない。20年以上前に友人の中国人夫妻に言われた言葉だ。


素振りが読めなくなったぼくら日本人の悲しい現実だ。決して、美徳ではない。


 

 

 

 

夜空ノムコウ

子どもの頃はやたら怪我をする。

いまの子どもは山や川で遊ぶこともないので、ぼくらの子どもの頃ほど下草や小枝、石に転んで切り傷をつくるということも少ないだろう。

 

些細な切り傷であれば、すぐにかさぶたができて、治る。ところが、これがかゆい。治りかけほどかゆくなる。それで、ひっかいてしまい、また血がでる。

 

その度に、よく母親から叱られた。

 

心の傷は切り傷とは違うが、同じように、かさぶたができる。場合によって、傷の痛みの記憶をかさぶたで治さず、深層に格納してしまうこともある。

心の傷にかさぶたができた頃、そこを自分で掻きむしる、あるいは他人に掻きむしられれば、かゆみではなく、痛みが走る。時に激しく。

ぼくらはだれしも、程度の差はあれ、心の傷口にできたかさぶたをはがす行為には、敏感に反応するものだ。切り傷のかさぶたから血が噴き出すように。


要領よく、単純にすべての傷を格納庫に運べればいいのだが、何かの不安要因や新たなストレスを抱えていると、格納が追い付かない。せめて、かさぶたで覆って痛みを感じないようにしている。


ぼくらは、いまコロナという感染症への不安とストレスを抱えている。だが、感染だけでなく、それによって生まれている生活や将来への不安とストレスの方がさらに大きい。

思うように行動できないことへのいら立ちもあるだろう。そして何より、人と通常の接し方ができないことがよりいら立ちを大きくしている。


同じとは言わないまでも、似たような考え方でいてくれるのか。自分の考え、自分という人間は自分が思うように他者に伝わっているのだろうか。自分の言動はおかしいと思われてはいないだろうか…といった自己評価への不安が生まれている。


確認の手立てが薄くなり、そのための会話の時間が少なくなっているからだ。物理的、便宜的、作業的な会話は、気持ちを通わせる会話にはならない。確認を求めれば、会話は途端にかみ合わなくなる。


小学生の頃、その確認ができず、自分の居場所のなくなったとき、ぼくはある手立てを思いついたことがある。

 

ひとつは本の世界に埋没すること。そして、もうひとつは、いまの現実を仮想に代えてしまうことだった。

 

じつは、自分はそこにおらず、地球を眺める宇宙空間に浮遊するカプセルの中に本当の自分がいる…そう思うようにした。

自分を受け入れてくれない世界はあるけれど、地球の上で他のだれかとして、そこに自分がいるだけだ。そう考えることで、受け入れらない辛さや寂しい現実をやり過ごそうとした。

そうすると、自分のことはどうでもよくなり、受け入れらない人たちに歯がゆい思いをすることも、怒りを感じることもなくなった。

不思議なことに、それ以上に、その人たちが自分のように宇宙でひとりではないことを喜び、地球の上で幸せであってくれたらいいと思えるようになるのだ。


それまでもぼくは夜空の向こうにある宇宙の未知に心を躍らせていたけれど、一層、宇宙や宇宙物理学、数学の世界に興味を掻き立てられるようになっていった。


ペルセウス流星群がいま地球から一番よく見える宇宙を飛んでいる。かさぶたのある人は、夜空を見上げてみるといい。東京では見られないが、あの夜空のむこうに、きっと何かがあるはずだから。



 

 

 

責任を痛感しております

時間と記憶(空間)の問いは、ソクラテスの昔からあった。そこにギリシャ悲劇が誕生したことも当然のことだ。ぼくは演劇という窓を通して、それを学び、実感してきた。

演劇は身体を通して、時間と記憶をどう観客と共有するかの芸術だからだ。

たとえば、ソクラテスからずっと後、実存主義は、存在の証明をまるで演劇の構造物のように、時間と記憶、その誤謬に求める。

 

だから、その祖ともいえるベルグソンはフランス喜劇の笑いに夢中になったし、ハイデッカー、ヤスパースキェルケゴールを経て、サルトルに至っては戯曲まで書いている。


だが、実存主義は、時間と記憶の認識において、あまりに文学よりで、前頭葉頼りだったのだと、いまにして思う。余談だが、だからこそ、あれだけ実存主義系の学者や作家の多くが愛人を持ったのだw。自分たちの前頭葉では理解できない世界への憧憬だ。

 

サルトルの戯曲は決して演劇的とは言えない。身体性や知覚と言語など、その後、現象学が登場すると愛人に弱い、実存主義は現実把握において、未熟だと理解されるようになった。

一重に、それは、身体がそうであるように、時間と記憶がすべからくあらゆる人に同じ尺度ではなく、知覚として認識される現象も、それを表す言語もひとつではない、というあまりに身体的で、直截な現実がぼくらに明白になっていったからだ。


ベケットは、この実存主義の弱さを個の尺度の違い、誤差に求め、個の総体、人々全体が、「そうであろう」と認識する世界が、身体性の相違のように、世界理解の尺度の違い、誤差の集積によるもので、実は存在しないという、現実と不安を提示して見せた。


そう。ぼくらは、それぞれが持ち合わせている時間、その長さ、質が実は個々に違う。時間のそれらが違うということは、共有しているだろうと思い込まれている記憶もじつは、相違があり、すべてにおいて誤差がある。あって当然なのだ。


日常を維持し、継続させるために、ぼく及びぼくらは便宜的に、時間の違い、記憶の誤差について、自動可変装置のように、辻褄を合わせているに過ぎない。この自動可変装置が機能しない人、うまく動作しない人たちをぼくらは精神的な疾患や精神的、人格的障害のある者として脇に置いてるだけのことだ。


彼らの描く世界が時に、ぼくらの想像を超えて、美し過ぎるのは、平準化・均一化・無個性化していない、見たこともない別世界を目の当たりにする畏怖と感動からだろう。

一方で、ぼくらは、平然と誤差を無視し、さも多くの人々と同じ時間、記憶を生きてるという演技をすることもできる。自動可変装置が機能しない、もしくはうまく作動しないことをごまかし、日常言語レベルもしくは、それ以下でしか会話ができないために。


「善処いたします」「記憶にございません」「責任を痛感しております」云々という言葉は、言葉ではなく、もはや一つの言語だ。自己の存在を消す世界の言語。意味性も何もない無の信号だ。ただ、信号だから、発信はしている。


自分はいないという信号だ。存在しないことの証として、「責任を痛感しております」がある。


つまり、いまぼくらの国には、首相は存在していない。






ダブルクラッチ

物事が人との協働作業がうまくいっているとき、ぼくは、いつもこんなふうに思う。

 

「ああ、いい具合に歯車がかみ合っているなぁ…」。

 

歯車がかみ合うというのは、こちらと相手の願いや期待、希望が共有され、同じイメージを共有していることが感じられることだ。平たくいえば、志を共にしているという実感だ。目指す動きがシンクロしている状態だといってもいいだろう。

物事を動かす動力が志だとすれば、どの動力を伝え、実現へ向けて形にしていくのが歯車のかみ合い具合だ。

 

自動車がぼくらの生活に大衆化していく頃、いまのAT(オートマテック)車というものはなかった。ギアを手動で換えるMT(マニュアル)車だけだった。

ギアや車両の精度や質もあったと思うが、車が古くなるならないかかわらず、ギアチェンジするときにギアが滑り、変速がうまくいかないというケースもままあった。

ギーといやな音が響き渡ることも多かった。これは高速より低速の方がエンジンの回転数が上がるので、ギアを急に入れ替えるとエンジン回転にギアがついていけずに、うまくかみ合わないためだ。

ダブルクラッチという運転技術は、カーレーサーが始めた手法だが、運転好きの奴は、減速するときに、一度、ギアをニュートラルにして、そこから減速するギアにシフトチェンジする。そうしないと高速から減速するとき、ギアを壊してしまう。

ぼくはエンジンブレーキ好きで、MT車でも減速するときセカンドにギアを落とす。あるとき、横に乗っていいた友人の男性ディラーから「ギアが壊れるから!」と文句を言われたのを覚えている。だが、現在のMT車は自動制御装置が完璧。ダブルクラッチを自動でやってくれる。ギアが壊れることはない。

いまぼくらの社会、世界では、かみ合わないギアの音があちこちで鳴り響いているように思う。


ギアシフトが壊れる嫌なノイズも社会を世界を覆っている。

 

それは人と人の関係から、人と組織、組織と組織、地域と国、民族や人種、そして、国と国の間でも…

ダブルクラッチを踏んで、回転数を互いに合わせるという知恵やゆとりがないからだろう。しかし、それは、社会が国が、そして世界が理想へ向けてシンクロしない、残念な時代へと向かう道を示しているとはいえないだろうか。

けれど、社会や国、世界がそうでないからといって、ぼくらひとり一人までもがそうある必要はどこにもない。もちろん、社会や国、世界のいまをつくっているのはぼくらひとり一人だ。

だからこそ、そのぼくらが身近なところから互いの歯車をかみ合わせ、志を重ねていけば、ダブルクラッチの知恵や技術のない愚かで、どうしようもない世界も変えることができるはずだ。


すべるクラッチののれんに腕押しといった歯ごたえない、いつ操舵不能となるかわらかない不安を生きるより、手に伝わる確かなギアのかみ合った感触を味わうほうがどれだけ安心で心地よいかわらならない。


そこから、始まるのだ。「ああ、いい具合に歯車がかみ合っているなぁ…」というあるべき社会、国、世界の一歩が。






 

 

しがみつく

中学生の頃、本の虫だったぼくが夢中になった作家のひとりに、フランツ・カフカがいる。

思春期の中学生をカフカに夢中にさせたのは、そこに描かれていた「正体不明の不安」「自分という存在の不確かさ」だった。


20世紀後半から21世紀のいま、そして100年に一度といわれる天災や感染症の拡大で、ぼくらはカフカが予言した「正体不明の不安」の只中にある。

カフカが提示した不安。それが描こうとしたのは、超高度管理社会が突如出現し、膨大化してしまった法制度や社会システムがその支配下にある自分たちに見えなくなる不安。それらが自分たちの理解や認識を越えて、つかみどころのない、得たいの知れない何かに変貌してしまう不安だ。

それは、言いかえれば、自分の脳が理解していた、これまでの世界観が根底から覆される不安だといってもいい。

だが、ぼくらの時代、カフカを越えて、個の存在不安が世界全体を覆い、不安を要因として、思い込みの正義、正しさという名の暴力が大衆化されていく怖さに遭遇している。

ユダヤ人であったカフカは個の不安の動因として覆された世界観=ナチの登場を予見していたが、それがナチのような残虐の顔をせず、正義や正しさという美しい顔をした悪意として大衆化されることまでは予見していない。

ぼくらはカフカが描いた変容した世界観から瓦解へ向かう世界の現実に直面しているのだ。それは環境問題であり、エネルギー、水、食料といった生存の基本にかかわるものから、資源枯渇型資本主義の限界まで。

感染症はどこを発祥としているかが問題なのではない。自然のひとつであるウィルスと人がどう向き合うのかの問いなのだ。

そこに、経済優先という資源枯渇型資本主義を持ち出す愚かさは押して知るべしだし、明らかに実現不可能なオリンピック開催にしがみつくことの愚鈍さは言うまでもない。

そこに、いま世界が置かれている不安と不安が導く、美しい顔をした悪意の大衆化を止める知恵は微塵もない。

カフカの名作『審判』にかけるべきは、いまこの地球を破壊し、大衆化する根拠のない暴力と不安に踊らされる大衆心理に何の方策も打ち出せない治世者とその利権にしがみつく経済人、そして、それを批判しつつも、正義や正しさを振りかざすことで、これまでの世界観を取り戻せると差別や偏見、排除や暴力にしがみつく

あなたたち民度なき大衆だ。






 

 

パブロフの犬

パブロフの犬」という言葉が中学のとき、クラスの中で流行ったことがある。

 

体験的で強制的な学習によって、行動が習慣化、パターン化されるという条件反射を解明した、ソビエト生理学者イワン・パブロフの実験のことだ。

ぼくらは、習慣化され無意識に反応してしまう行動に愚かさを感じたのだろう。何かで互いを揶揄するときに、「あ、パブロフの犬だ!」と笑いにして使っていた。得たばかりの知識を子どもはすぐに変容して使いたがる。

時として、子どもの悪ふざけは人を傷つける。よいことではないが、ぼくらが実験=教育によって習慣化されてしまう生き物の条件反射を愚かさの一種と理解したことは決して間違ってはいない。

フランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、その教育論の中で、「教育とは本来不遜なものだ」と語っている。すでに制度化され、社会通念とされている道徳や規範、それに基づく法に従わせるために、大人の都合、社会制度を維持するために、子どもを適合させる。それにそぐわないものは、場合によって本人の意志とは無関係に矯正する。それを正しいことと考えている。

社会制度や規範は、その時々の政治権力、宗教を背景として、とりあえず、便宜的に合意されたもの、人為的につくられたものに過ぎない。何かあれば、その基軸は容易に変容する。

 

だとすれば、教育そのものになにひとつ正当性はない。ルソーは、それを不遜だと言ったのだ。

それを前提としなくては、教育は教育でなく、小さな親切、大きなお世話。大人たちの手前勝手なご都合主義、場合によっては虐待に陥ってしまう。それは自主性を育む教育ではない。ルソーはそれを強く諫めた。

自主性とは、自ら考え、試行錯誤し、失敗があっても学び、自ら普遍的な価値、回答に辿りつくことだ。それによって、自己決定能力も主体的な思考と行動を身に付けることもできる。自尊感情はその過程で自然と育まれていく。

かつて、この国の政治家や中央官僚は、すべてとは言わないが、大きな力を持つ者ほど、そういう教育を受けた人間がその職にあった。


単に高学歴であるというだけでなく、頭脳明晰で、主体的な思考と行動ができなければ、トップの政治家にも官僚にもなれなかった時代だったのだ。

もちろん、利権を貪る輩は昔からいたし、それに群がる人間もいた。しかし、少なくとも、いまほど愚かではなかった。

この国のいまの政権、それに迎合する中央官僚や財界、現行の政治を支持する国民の多くは、詳しくは述べないが、時代的に、少年期や思春期すでに、社会に適合するための生き方しか習慣化されていない。反権力や反社会はみっともない事、恥ずかしい事、無力なことと教えられ、現実にそうした前例しか体験もしていない。

 

一度、善悪や正誤を越えて、現状維持を習慣化された脳は、その判断基準は持てないし、持とうとはしない。言われるがまま、公文書を改ざんし、政権を擁護するための屁理屈や言い逃れ、虚偽発言を平然とできてしまう。

それを善悪や正誤の基準で強く批判しても、彼らにはまったく響かない。パブロフの犬状態が長く続いているから当然のことだ。


心理学で人間の残虐性の実験がある。

被験者二人に相応の料金を払い、ひとりを電気ショックの被験者とさせ、ひとりに電気ショックを与える役割りをさせる。

電気のダイヤルを回すひとりに、この実験が社会的に大きな成果を生むという正義、正しさを教え込む。すると、この行為が正しいことだと教えられた加害者役のひとりは、ためらうことなく電圧を上げることができてしまうのだ。善悪の基準がないから、罪悪感もない。当然の自分の役割、使命として平然と電気ショックを与え続けることができる。

格差も貧困も自殺増も コロナ感染拡大も それによる倒産増加も 彼らには関係ない。心底、民のために泣くことも 無力な自分を恥じることも あらん限りの努力を不眠不休でやる心意気もない。


ぼくらは、いまそうした社会、国に生きているのだ。

 

 

 

困ったちゃん 困ったくん

世の中には、困った人がいる。

 

かつて、それはKYなどともいわれた。周囲の空気が読めない人ということだが、いまどきの困った人は空気が読めないだけではない。

 

やたら、正義を振りかざす人やさして知識もないのに、あるがごとき錯覚をしている人、表層的にしか物事をとらえられない人たちだ。そうした人たちがテレビに毎日のように登場し、無邪気に私見を垂れ流す。

 

テレビはドキュメンタリーや映画しかみない人間になったのは、マスコミが垂れ流す報道の軽薄さ、なんとか評論家の底の浅さに辟易したからだ。

 

「マスコミの劣化はこの国の政治家・官僚の劣化に等しい」という悲しむべき公式が誕生している。

 

ところが、多くの人はそうでもないらしい。いま、情報操作という言葉が大流行りだが、この国の多くの人がその情報操作によって、情報操作されていないものを社会からあぶり出し、たたき、打ちのめす。

 

ひどい世の中になったものだと嘆息をもらしながら、自分自身がひどい世の中をつっているひとりであるという自覚がない。それがこの国の国民の正体だ。

1959
年に上梓された、三島由紀夫の評論・随筆に『不道徳教育講座』(角川書店刊)がある。

講演会やテレビインタビューなどで軽妙洒脱に語る三島の口調がそのまま文体になった本で、既存の価値観に縛られて、画一主義、前例主義で保身に走る、この国の官僚機構や企業、組織の古めかしさを鮮やかに切っている。世間という実態ない同調圧力がこの国をダメしている指摘もこのときすでに三島はやっている。

いまの時代に息苦しさや嫌気の差している人にはぜひ読んでもらいたい。

その本の上梓から10年後、三島は自決するのだが、天皇制と憲法改正、軍隊の創設をいった三島が、古い道徳感や倫理観を吹き飛ばす軽妙な評論・随筆を書いているのが理解できないという薄学の人も多い。

 

だが、三島の中では一貫している。三島がこだわったのは、失われていく、この国の禁忌性だ。

 

禁忌性とは、侵すべからずもの、犯すべからずなもののことだ。逆の言い方をすれば、畏敬、畏怖すべきもの、触れてはならないものと言ってもいい。

 

三島が伝統文化や土俗的な地域性・地方文化にこだわったのも、そこに禁忌性の領域が残されているからだった。踏み込んではならない領域、場所。それは結界の張られた森の一隅であり、神社や海の岩礁に立つ社といった祭事の折でもなければ、その神髄に近づくことも立ち入ることもできない存在だ。

 

それらを軸としてつくられる秩序や伝統文化だ。

 

実は、法と法制度、その根幹をなす社会倫理や道徳とは、この禁忌性を拠り所として成立している。

 

禁忌性が失われることで、社会秩序や倫理、道徳、規範といったものが溶解し、歴史の中でつくられたきたその土地、その国、その社会の姿までもが崩壊する…。その危機感が三島に真正天皇=神としての天皇の必要性を切迫させた。

禁忌なるもの、畏怖と畏敬の存在。その最たるものが、天皇だったからだ。真正天皇の復活が独立国家としてアメリカと決別する唯一の道だと三島は考えていた。それは、日本国の文化基盤の回復と三島の中では等価だったからだ。

異議はあるにしても、思考の流れと壊れゆく日本社会と文化を立て直そうとする意志と覚悟において、ぼくは三島を否定しない。否定してはいけないと考えている。

いま、この国には、困ったちゃん、困ったくんが溢れ返っている。それも民の安全と生活を守るべき、政治の中枢、経済の中枢にはびこっている。

 

それは三島が指摘した、禁忌性の喪失が、国をつかさどる政治家、官僚に始まり、経済界、民衆にまで、後戻りのできない崖っぷちまで浸食しているからだ。

禁忌性は排他や差別、階級制といった矛盾もはらんでいるが、そこを新たな知恵で克服し、あるべき秩序と社会倫理を組み立て直すときをぼくら国民は迎えている。

 

コロナ禍は、困ったちゃん、困ったくんを一掃しなければ、この国、世界に未来がないと教えているのだ。

 

 

 

 

 

縺れ糸を解く

子どもの頃、なんの糸にせよ、糸で苦労した記憶がある。

 

ぼくは生来とても不器用で、細かなことがとても苦手だった。

 

ご飯を食べるときも「食べる先からこぼして~!」と母によく叱られたものだ。

これはいまに至ってもまったく治ってない。ぽろぽろこぼす。

 

買ったばかりのお気に入りのカットソーやワイシャツ、ネクタイ、カーディガンに度々食べ物をこぼし、染みをつけてしまう癖がある。その度にクリーニング屋さんに、あらん限りの染み抜きの技術を駆使させ、手間をかけている。

 

そんな少年がスイスイと針に糸を通すことができるわけがない。やっと通せても、縫ってる先から糸を絡ませてしまう。

 

父に釣りに連れていかれれば、今度は、釣り糸を絡ませてしまう。釣り糸というのは、絡んで、縺れてしまうとなかなか解けるものではない。しかし、父は器用に絡んだ糸を元通りにしていたものだ。決して、切って捨てようなどという考えはなかった。

 

そんな不器用なぼくだったが、小学校の高学年の頃から中学、高校、大学、劇団、映画、WEB、イベントと人を集合して物事をやるようになって、人を動かしていくには、うまく糸を通すこと、絡んだ糸を解く技が必要なのだと思うようになった。

人を集め、何がしかの目的に向かって、認識を共有しながら、連携していく。そこには人と人をつなぎ、共通の意志や幻想によってつながる糸がいる。

だが、それは絆とか、心ひとつにとかいった、感情論や雰囲気でできることではない…ということも、糸を通すことの難しさの中で教えられてきた。

システムや制度とまではいわないが、そこには、その場の勢いやノリで片付けられない、計算された図面や図面を立体化するための知恵やテクニックが必要なのだ。糸を通し、つなぎ、それによって物事が支障なく動き、人も動く。絆やワンチームといった言葉だけでそれは実現しない。

何か支障や障害があったときに、その絡み、縺れを解けるのも、その知恵やテクニックがあってこそのことだ。

いま、コロナ禍と景気の低迷へと加速度が増す中、ぼくらの国は愚策、無能といってもいい政権や中央官僚、省庁によって、絡み、縺れ切った社会の現実を突きつけられている。そもそも、糸を通してもおらず、ただ、権力中枢で利権という糸をつないで来ただけだからだ。

 

利権だけでつながった糸は、国家的危機や国民生活の困窮へ対処するつながりと力を持っていない。生半可にやろうとして、縺れ、絡ませ、手も足も出なくなる。国家的危機に対処するための国民国家のために糸をつないで来ていないのだから、当然だ。無力だ。

利益相反、癒着、贈収賄…白日の下に晒されたら刑法犯として多くの罪状が挙げられるに違いない政治の中枢とそれを指摘も批判もせず、利権、既得権に群がる官僚、企業、団体、個人の存在…。

これほどまでに、戦後、政治の中枢が腐り切った時代を見たことがない。またそれに異議を唱える国民の声がマスコミや内閣府電通の力で抹消されている時代も見たことがない。

だが、縺れた糸は必ず解くことができる。国民国家のための糸が脆弱で、ないに等しいなら、ぼくらの意志と行動、国民の声を糸にしていけばいい。

当時、まだ、巡査部長で薄給の父にはこれといった趣味も道楽もなかった。唯一の楽しみが釣りだった。その父が釣り糸ひとつを無駄にしないために、黙々と縺れた釣り糸を解く姿に、ぼくは子ども心にも尊敬を覚えた。

縺れた糸を解く…。それができる大人でなければ、次の時代を生きる人たちに、あなた大人たちは何を語れるというのか。





ソーシャルディスタンスとウェルフェア 超克の時代

他者との関係性をどう生きるか…それが有史以来、人類が絶えず直面してきた課題だ。

人と自然、人と人、人と集団、人と地域、人と社会…。その関係のあり方は、国家形成に深く関与している。これらの合意された関係性で国家はつくられているからだ。

また、関係性を保つために創造され、承認された国家基盤が、異なるそれらとの関係性、つまり、これを多国間と保てるか、保てないかの基本因子にもなっている。

税のしくみをもとにする国家と民との契約もここから生まれている。

民は公民として国家に納税し、同時に、国家はその貢献に見合う、生活と安全を公民に補償する、ウェルフェアの概念は、ここから誕生した。人々の公民としての国家への貢献は、国が補償する社会福祉と表裏一体で生まれたものだ。

仮にこの契約が守られない、反故にされるということが起きれば、民は国家に対して、公民としての義務を果たさなくなる。

場合によって兵役という形で、人々は国に貢献することで税を軽減、免れることもできた。契約が反故にされれば、納税を放棄するだけでなく、人々は国のために戦うことをしなくなる。

他国との戦争とは、いわば、異なる合意によってつくられた他国と維持できていた関係が破綻したことを意味する。それは、つまり、自分たちの国と民との契約が、異なる合意によってつくられた他国によって反故にされる危機に直面しているということだ。

これを守るための戦い。それゆえに、人々は兵役に自ら順じ、参戦した。にもかかわらず、自国によって反故にされるなら、戦うことそのものの意味を根本から失う。

つまり、納税の義務は契約上成立しなくなるし、公民として国家を維持するための兵役の義務を果たす必要も生じない。

契約なのだから当然のことだ。

国家への帰属意識や公民意識はこれを背景に形づくられ、その延長に「愛国心」なる不確かなものに一定の幻想を成立させてきた。それが、中世から近代、そして、現代への歩みであり、その強化にって、現在の国家という枠組みの集まりである、「世界」は形づくられている。

今回の新型コロナウィルスによる世界規模の感染拡大は、この問題を改めて、世界中の市民、国民、そして治世者たちに突き付けているのではないかとぼくは考えている。

15世紀から16世紀にかけたペストの大流行は、今回の新型コロナがもたらすであろうと想像されている社会変容と同じく、まったく新しいステージを世界に提供した。

 

ロシアに象徴されるように、民の大部分を占めていた農民は、ペストによってもたらされた生活苦で国家の契約反故に反抗できず、生活苦のまま農奴と化していく。

だが、一方で、「マグナ・カルタ」で王への帰属から自由を勝ち取った経験のあるイングランドでは、人口減により、農地を預かる小作農民が貴族に抵抗し、農業の維持を盾に独立自営農民の地位を確立していく動きが生まれた。

 

引いては、これが貴族社会を崩壊へ導き、産業革命につながっていったのだ。農奴と化したロシアの農民は、貴族エリート集団とつながって、その後ロシア革命を実現する。

いずれも貴族の崩壊。


こうした変化、あるいは革命は、間違いなく、新型コロナ禍によってもたらさせるだろう。これまでの国家と民衆の契約が変わるからだ。変えざるえなくなるからだ。


なぜなら、ペストの例からもわかるように、現状のしくみのままでは、国家と民衆の双方において、新たな合意形成がなされなければ、労働人口の減少、ソーシャルディスタンス時代のその後、次を生きられない。その中でのウェルフェアの提供もできない。

労働人口流動性、企業活動のグローバライゼーションが世界の先進国を底辺で支えてきた、新自由主義を基本とする現代資本主義社会において、ソーシャルディスタンスは致命的な弱点を露呈している。

自国ファーストが世界を覆おうとする矢先、新型コロナによる感染拡大が地球規模で起きたのは、何か見えない力の存在さえ感じさせるほど皮肉なタイミングだった…そう感じる人は少なくないはずだ。

人が人との一定の距離を保つという生活は、人々の生活意識、帰属意識、公民意識の在り方も変えていくし、現実にすでに変わり始めている。距離を保つことで成立する生活スタイルがあると考える人、距離を保っていては、生活ができないと痛感している人…


いずれも、どうこれまでとは違う人との間合い、関係をつくればいいかの問いに直面している。それは冒頭で述べているように、人と国、国と国の関係にまで広がっている。

距離を保ちながら、それでも帰属意識、公民意識をどう成立させられるのか。成立させるための社会保障をどのように提供していくのか。

治世者も、民衆も自らの問いとしていかなければ、この過酷な現実の次を見ることはできないだろう。それは、治世者自身が自らを超える能力があるかどうか。民衆が自ら、これまでの権力依存を乗り越え、蜂起できるかどうかにかかっている。

ニーチェが言う超人となれる自己超克を果たせる人がどれほどいま世界にいるか、それが問われている。