縺れ糸を解く
子どもの頃、なんの糸にせよ、糸で苦労した記憶がある。
ぼくは生来とても不器用で、細かなことがとても苦手だった。
ご飯を食べるときも「食べる先からこぼして~!」と母によく叱られたものだ。
これはいまに至ってもまったく治ってない。ぽろぽろこぼす。
買ったばかりのお気に入りのカットソーやワイシャツ、ネクタイ、カーディガンに度々食べ物をこぼし、染みをつけてしまう癖がある。その度にクリーニング屋さんに、あらん限りの染み抜きの技術を駆使させ、手間をかけている。
そんな少年がスイスイと針に糸を通すことができるわけがない。やっと通せても、縫ってる先から糸を絡ませてしまう。
父に釣りに連れていかれれば、今度は、釣り糸を絡ませてしまう。釣り糸というのは、絡んで、縺れてしまうとなかなか解けるものではない。しかし、父は器用に絡んだ糸を元通りにしていたものだ。決して、切って捨てようなどという考えはなかった。
そんな不器用なぼくだったが、小学校の高学年の頃から中学、高校、大学、劇団、映画、WEB、イベントと人を集合して物事をやるようになって、人を動かしていくには、うまく糸を通すこと、絡んだ糸を解く技が必要なのだと思うようになった。
人を集め、何がしかの目的に向かって、認識を共有しながら、連携していく。そこには人と人をつなぎ、共通の意志や幻想によってつながる糸がいる。
だが、それは絆とか、心ひとつにとかいった、感情論や雰囲気でできることではない…ということも、糸を通すことの難しさの中で教えられてきた。
システムや制度とまではいわないが、そこには、その場の勢いやノリで片付けられない、計算された図面や図面を立体化するための知恵やテクニックが必要なのだ。糸を通し、つなぎ、それによって物事が支障なく動き、人も動く。絆やワンチームといった言葉だけでそれは実現しない。
何か支障や障害があったときに、その絡み、縺れを解けるのも、その知恵やテクニックがあってこそのことだ。
いま、コロナ禍と景気の低迷へと加速度が増す中、ぼくらの国は愚策、無能といってもいい政権や中央官僚、省庁によって、絡み、縺れ切った社会の現実を突きつけられている。そもそも、糸を通してもおらず、ただ、権力中枢で利権という糸をつないで来ただけだからだ。
利権だけでつながった糸は、国家的危機や国民生活の困窮へ対処するつながりと力を持っていない。生半可にやろうとして、縺れ、絡ませ、手も足も出なくなる。国家的危機に対処するための国民国家のために糸をつないで来ていないのだから、当然だ。無力だ。
利益相反、癒着、贈収賄…白日の下に晒されたら刑法犯として多くの罪状が挙げられるに違いない政治の中枢とそれを指摘も批判もせず、利権、既得権に群がる官僚、企業、団体、個人の存在…。
これほどまでに、戦後、政治の中枢が腐り切った時代を見たことがない。またそれに異議を唱える国民の声がマスコミや内閣府、電通の力で抹消されている時代も見たことがない。
だが、縺れた糸は必ず解くことができる。国民国家のための糸が脆弱で、ないに等しいなら、ぼくらの意志と行動、国民の声を糸にしていけばいい。
当時、まだ、巡査部長で薄給の父にはこれといった趣味も道楽もなかった。唯一の楽しみが釣りだった。その父が釣り糸ひとつを無駄にしないために、黙々と縺れた釣り糸を解く姿に、ぼくは子ども心にも尊敬を覚えた。
縺れた糸を解く…。それができる大人でなければ、次の時代を生きる人たちに、あなた大人たちは何を語れるというのか。
ソーシャルディスタンスとウェルフェア 超克の時代
他者との関係性をどう生きるか…それが有史以来、人類が絶えず直面してきた課題だ。
人と自然、人と人、人と集団、人と地域、人と社会…。その関係のあり方は、国家形成に深く関与している。これらの合意された関係性で国家はつくられているからだ。
また、関係性を保つために創造され、承認された国家基盤が、異なるそれらとの関係性、つまり、これを多国間と保てるか、保てないかの基本因子にもなっている。
税のしくみをもとにする国家と民との契約もここから生まれている。
民は公民として国家に納税し、同時に、国家はその貢献に見合う、生活と安全を公民に補償する、ウェルフェアの概念は、ここから誕生した。人々の公民としての国家への貢献は、国が補償する社会福祉と表裏一体で生まれたものだ。
仮にこの契約が守られない、反故にされるということが起きれば、民は国家に対して、公民としての義務を果たさなくなる。
場合によって兵役という形で、人々は国に貢献することで税を軽減、免れることもできた。契約が反故にされれば、納税を放棄するだけでなく、人々は国のために戦うことをしなくなる。
他国との戦争とは、いわば、異なる合意によってつくられた他国と維持できていた関係が破綻したことを意味する。それは、つまり、自分たちの国と民との契約が、異なる合意によってつくられた他国によって反故にされる危機に直面しているということだ。
これを守るための戦い。それゆえに、人々は兵役に自ら順じ、参戦した。にもかかわらず、自国によって反故にされるなら、戦うことそのものの意味を根本から失う。
つまり、納税の義務は契約上成立しなくなるし、公民として国家を維持するための兵役の義務を果たす必要も生じない。
契約なのだから当然のことだ。
国家への帰属意識や公民意識はこれを背景に形づくられ、その延長に「愛国心」なる不確かなものに一定の幻想を成立させてきた。それが、中世から近代、そして、現代への歩みであり、その強化にって、現在の国家という枠組みの集まりである、「世界」は形づくられている。
今回の新型コロナウィルスによる世界規模の感染拡大は、この問題を改めて、世界中の市民、国民、そして治世者たちに突き付けているのではないかとぼくは考えている。
15世紀から16世紀にかけたペストの大流行は、今回の新型コロナがもたらすであろうと想像されている社会変容と同じく、まったく新しいステージを世界に提供した。
ロシアに象徴されるように、民の大部分を占めていた農民は、ペストによってもたらされた生活苦で国家の契約反故に反抗できず、生活苦のまま農奴と化していく。
だが、一方で、「マグナ・カルタ」で王への帰属から自由を勝ち取った経験のあるイングランドでは、人口減により、農地を預かる小作農民が貴族に抵抗し、農業の維持を盾に独立自営農民の地位を確立していく動きが生まれた。
引いては、これが貴族社会を崩壊へ導き、産業革命につながっていったのだ。農奴と化したロシアの農民は、貴族エリート集団とつながって、その後ロシア革命を実現する。
いずれも貴族の崩壊。
こうした変化、あるいは革命は、間違いなく、新型コロナ禍によってもたらさせるだろう。これまでの国家と民衆の契約が変わるからだ。変えざるえなくなるからだ。
なぜなら、ペストの例からもわかるように、現状のしくみのままでは、国家と民衆の双方において、新たな合意形成がなされなければ、労働人口の減少、ソーシャルディスタンス時代のその後、次を生きられない。その中でのウェルフェアの提供もできない。
労働人口の流動性、企業活動のグローバライゼーションが世界の先進国を底辺で支えてきた、新自由主義を基本とする現代資本主義社会において、ソーシャルディスタンスは致命的な弱点を露呈している。
自国ファーストが世界を覆おうとする矢先、新型コロナによる感染拡大が地球規模で起きたのは、何か見えない力の存在さえ感じさせるほど皮肉なタイミングだった…そう感じる人は少なくないはずだ。
人が人との一定の距離を保つという生活は、人々の生活意識、帰属意識、公民意識の在り方も変えていくし、現実にすでに変わり始めている。距離を保つことで成立する生活スタイルがあると考える人、距離を保っていては、生活ができないと痛感している人…
いずれも、どうこれまでとは違う人との間合い、関係をつくればいいかの問いに直面している。それは冒頭で述べているように、人と国、国と国の関係にまで広がっている。
距離を保ちながら、それでも帰属意識、公民意識をどう成立させられるのか。成立させるための社会保障をどのように提供していくのか。
治世者も、民衆も自らの問いとしていかなければ、この過酷な現実の次を見ることはできないだろう。それは、治世者自身が自らを超える能力があるかどうか。民衆が自ら、これまでの権力依存を乗り越え、蜂起できるかどうかにかかっている。
ニーチェが言う超人となれる自己超克を果たせる人がどれほどいま世界にいるか、それが問われている。
もがき方のヒント
新規サイトに移動した最初に、なんとなく書く。
三島由紀夫の文学にはふれても、三島がなぜ、あれほどに土俗的な生活文化、通俗と崇高さの混濁に執着したか、正確にいえば、憧憬を強く抱いていたかを知る人は少ないだろう。
演劇的にであれ、民俗学的にであれ、あるいは、哲学、宗教学、脳科学、生物学、運動生理学的にであれ、伝統や文化といったものへの探求は、身体性を通して、自分たちは何者であるかを問い直す作業だ。
地方文化の集積と洗練化が国、世界の文化をつくるように、土俗的、通俗的な習慣、慣習、それらがつくる社会通念といったものが、国、世界の様々な生活文化の基準にまで深く関与している。
言い換えれば、地方の土俗性が生み出す粗削りながら力強い確信に満ちた文化の発信がなければ、そして、その継続と維持がなければ、国、世界の基準を支えるものが揺らぎ、文化の停滞、引いては、国の疲弊を生むことにつながる。
流動性を生きないと決意したものたちにだけ与えられる、この確信が失われれば、地方の溶解が始まり、ついには、基準とすべき拠り所、根拠は失われ、自分たちは何者でもない、何かという不透明性しか得られなくなる。
自分たちの足元を見直していけば、窮屈さや優位さを含め、地方の何たるかがわかり、都市の何たるかが見えてくる。
その先には、この国の何たるか、世界の何たるかが見えてくるはずだ…三島はそう考えた。ゆえに、地方の文化、身体性にこだわり、性的で、通俗的、土俗的なものを突破する先に見える、崇高なものの屹立を夢想したのだ。
だから、三島は性を描いた。それも実に二次元的に。
生来、人間の営みとしてあり、業ともなる性なるものは通俗でありながら、性愛という言葉があるように、愛という掴みどころも、確かさもない、ゆえに、崇高なものとつながっている。それを相対化させ、より鮮明にするために、あえて二次元の表層として描いた。
愛を描くのではなく、葛藤を。憎悪を。愛を信じるのではなく、切りさいなむ。それでもなお、性でつながり、だが、通俗な単なる淫欲に終わらないものにこそ、美があると三島は信じたからだ。
ぼくらの時代は、この通俗と崇高の混濁が生む世界をよしとしない文化をつくってきた。通俗と崇高とに整理し、整理するだけでなく、通俗的なるものを猥雑なもの、余剰なものとして、葬ってきたのだ。
あるいは、通俗を消費社会に取り込んできた。それを文化の多様性という人もいる。
だが、それによって運ばれてきたのは、ますます深まった自己の不透明性だ。
ぼくはいま、二つの書籍の企画出版に挑戦している。自らの不透明性ゆえに、限りなく承認欲求が高くなったこの社会、世界で、そこでの<もがき方のヒント>となればと考えてのことだ。
自己責任という名のカッティングオペレーション
終身雇用への足かせがはずれ、成果主義が登場し、ここにもリストラされる社員への自己責任論が登場する。
社会的にも、当時、いじめや不登校、ひきもり、ニートの問題が浮上していたが、これもそうなった側に問題があるとする自己責任論が幅を利かせていた。社会への適応能力に欠けているお前のせいだ。つまり、自己責任だというわけ。
中東の紛争地帯で活動していたNPO団体のスタッフが拉致されて、彼らが無事帰還したとき、激しいパッシングに遭った。その後、命を落とした青年やジャーナリストもいたが、ここでも紛争地帯へ行った本人の自己責任を問う声が激しかった。
自己責任という言葉は、じつに都合のいい言葉だ。すべを自己責任で片づければ、政治や社会、制度の問題点は指摘されることもなく、追求もされない。
ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、問題を見えなくする、なかったことにする。ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、社会の速さとは別のスピードしか持たない者の人権や生活権、場合によって生存権すら反故にする。
社会に起きるさまざまな事件、事故、犯罪を犯人探しと自己責任で、表層的に片づけ、自分たちの問題、国や社会のあり方の問題としないとことで、この国はなんと長い間、多くの動機不明の事件、無差別殺傷事件を生み出していることだろう。
カッティングオペレーションで世界はよくない方向にこそ向え、決して改善はされていかない。
主役はだれかなのか忘れてはいないか
それまで、女性は政治にかかわることもできなければ、自らの権利や人権を主張することもできなければ、それが守られてもいなかった。
近代と前近代との大きな違いは、市民が分け隔てなく、政治に参加できているか否かだ。そして、政治の使命は、市民の実状と声に向き合い、分け隔てなく、市民一人ひとりの生活を守り、その質を高めていくことでしかない。
法外な年収を得る人間や親の資産を背景に安定した生活を過ごす層がいる一方、明日の暮しもギリギリの相対的貧困が広がっている。しかも、これは増大こそすれ、是正の方向には向かっていない。親の貧困が子どもへとつながる、貧困の連鎖が生まれ、固定化してきているからだ。
貧困と借金、大学の貸与奨学金返済による生活苦は、目の前の時間と仕事、それによって得る、わずかなお金しか見えなくさせる。生活苦は身体的に過重な労働となるだけでなく、それが心も壊していく。
そんな生活を強いられて、とても社会の問題や政治を考えるゆとりなどない。意見を言うどころか、自己の権利や人権にさえ、思いいたらない。
言葉遣いは丁寧で慎重ながら、自分が主役であるという意識は揺るがない。
この状況が新しい日本の未来像の姿だとしたら、若い世代を食いつぶしていくことがこの国の未来だとしたら、夢を持ってこの国に来た外国人を使い捨てにすることがこの国のこれからだとしたら…
この国は、近代とは名ばかりの前近代を目指していることになる。いまの世の中、ぼくら国民を含め、主役がだれなのかをすっかり忘れてはいないだろうか…。
承認という病のバイオハザード
同世代の仲間や近い世代の後輩たちから認められることが何よりも重要で、上の世代や大人の照準に合わせて、もらう承認など、意味がないと思っていた。承認は勝ち取るもので、もらうものは何の価値もない。それは、本質的に、いまも変わらない。
いま、若い世代から中年世代まで、憑かれたように、だれでもいい他者からの承認や組織や集団からの社会的評価の承認の欲求に溢れている。それは、ほぼ社会病理といっていい。
それが社会の保守化を進め、権力の求める従順で、批評性を失った人間を量産している。生活の障害や問題、苦難は、すべて自分のせいだと思い込むのも、被害、暴力に遭っても声を出せない人間をつくり出すのも、それを見過ごしてしまう人間を増大させているのも、それだ。
社会的な枠組みに残ることさえできれば、それをどのような手段で得たとしても、自分への承認がもらえ、弾き出されることはない…そう考えるからやっていられる。
しかし、それは一人の人間の生き方として、途轍もなく、恥ずかしいことだし、騙されていることになる。
倫理とかに照らしてなどいう、つまらない道徳観からではない。そうやって得た社会的な立ち位置から、かりそめに得た、底割れしそうな足場に立って、他者に語れる言葉があるのか、他者へ伝えられる何かがあるのだろか。次の世代へ残せる何かがあるのだろうか…ということだ。
それは、ぼくには、承認のための自傷行為のように思えて仕方がない。ぼくらの社会は、承認という病の感染者が広がる、バイオハザードへと向かっているのかもしれない。
感染者ではない者から見たら、その風景はあまりに異常に見えるはずだ。見えないとしたら、それはあなたがもうすでに承認という病に感染しているからに違いない。
数学なんて苦手~とかいってる場合じゃない
多くの人は気づかない。おもしろい小説、映画、舞台といったものには、必ず、神話や寓話が内在している。ぼくら人類は、そして脳は、ぼくらが思うほど、奇抜でも、斬新でもなく、じつは類型的にできているのだ。
なぜか。それは世界を知りたいと考えたから。自分とは何かを知りたいから。よりよくありたいと願ったから。もっといえば、世界をつくった創造主(神)は何かを知りたかったからだ。
天地人という言葉ある。何事かを達成するためには、天の時、地の利、人の和のどれが欠けてもうまくいかないという意味だが、物事がうまくいっているときには、そこに定理が動いている。つまり、理に適っていることをやっているからだ。
失敗事例や成功事例をぼくらは、ついつい感情的に説明したり、あるいは天地人のような譬えにしてしまうけれど、そこには、定理に基づく、きれいな数式が実は隠れている。
こうすればこうなるのではない。その式にたどりつくまでには定理が動いている。こうなるための、あらゆる要素がそこにある。当然ながら、こうしたいという感情、思い、願いとったものも、実はエネルギー、力という数にできる。
それを見破れないのは、ぼくら自身が定理をわかっていないからだ。数学なんて苦手~とか、いってる場合じゃない。
ぼくらくらいなもの
「小事にとらわれず、大局を見ろ」「木を見て、森を見ず」。
つまりは、物事や事象を小さな視点、狭い視野でなく、俯瞰から捉えろということだけれど…果たして、この言葉、いまぼくらが生きている世界にふさわしい譬えといえるのだろうか。
食料品や日常雑貨品が値上げになり、年金支給額や生活保護費が削られる。社会のセーフティネットである高齢者保護や福祉予算が軒並み削られている上に、実質賃金は減少が続いている。
それでも、株価が20,000円代を維持しているだけで、日銀短観も政府の景気動向発表も決して悪いとは発表されない。根拠となる指数のデータの改ざんや破棄があってもだ。
先進国で唯一、子どもの貧困が7人にひとり。単身女性の平均年収が114万円。シングルマザーに至っては、その貧困率は世界1位。
東日本大震災からの復興は、お涙頂戴式の話題は盛んに取り上げられても、いまどうなのかを課題や問題点を的確に、丁寧に伝えるマスコミはじつに少ない。
そうしたことは、小事とされ、大局で復興は進んでいる、経済は安定しているとほぼすべての大手マスコミが報じる。大局でオリパラを盛んに煽りながら、小事で、どうあるべきかの議論を提案する報道はない。
多様性と流動性の時代といわれるようになってから、グローバリズムに軋みが出ているにもかかわらず、実態生活からかい離して、国際社会の動向だからと一律に小事を否定した結果、イギリスのEU離脱を生み、アメリカのトランプというおおよそ大統領にふさわしくないヤンキーを権力の頂点に置いてしまったのだ。
こうした視点を持つためには、当然ながら大局を、森を見なくてはできない。
だが、それを見るために必要なのは、小事をしっかり理解することからだ。漫然と全体を見ても、いまという時代、大局も、森も、その実態を捉えることはできないようになっている。どれが大局なのか、どういう森なのかがわからない。
どこへ行けるというのか
昭和39年の東京オリンピックを舞台にした、いまでいう爆破テロ計画を企てた男のノンフィクションだが、その背景に描かれいるものは事実だ。
当時、日本中がオリンピックに沸き、華やかな表舞台にしか目がいかない中、会場建設や高速道路整備に東北の農村地域から多くの季節労働者が動員され、事故死を遂げている。
余談だが、その中には、まだ福島第一原発のなかった、大熊町なども含まれている。原発を受け入れた最大の決め手は、原発があれば、家族が一年一緒に暮らせることだった。それほどに農家は出稼ぎに頼らなくてはまだ生活が厳しい時代だったのだ。
飯場といわれる簡易宿泊所に寝起きし、人入れ仲介業者(現在の派遣会社の前身)にピンハネされ、低賃金と過酷な労働の中で、楽しみといえば、博打と酒。それで身を持ち崩し、故郷を捨てた者もいれば、ホームレスになった人間もいる。
誘惑に負けず、懸命に働き、妻子の待つ故郷へ帰れる者が大半だが、現場での怪我や事故における傷害や死亡補償は当時、ないに等しかった。だから、過酷な現場、危険な現場ほど手当がよく、また、それが作業経験がないための死亡事故にもつながった。
兄のいのちを奪われ、見向きもされない現実に、自らも東京という都市に受入れられなかった男が地域格差と貧富差への復讐として、オリンピックの虚栄を暴くために事件を起こす。
しかし、思想犯に仕立て上げられ、左翼思想にかぶれた男の未遂事件として葬られる。それが権力の側にとって、彼が一番訴えたかった地域格差、貧困格差を隠す都合のいい筋書だったからだ。
この小説がいいたいことははっきりしている。そして、それは今日の東京オリンピックの姿にもつながっている。
昭和39年のあのときと経済事情は大きく変わった。だが、地域間格差はより広がり、経済はゆるやかな回復などという美名に隠れて、置き去りにされている貧困がこの国には広がり、ますます拡大する方向にしか、政策は機能していない。
復興オリンピックなどといわれながら、その恩恵を受けるのはごくわずかな東北の地域と東京だけのものだ。
いま新年号に沸く、この国は、繁栄の影で見捨てられているもの、切り捨てられているものへ目を向けることもなく、どこへ行こうというのか、行けるというのか。
あなたは世界から愛されているか
ぼくは中学生のとき、その前文を授業で学び、震えるように感動したのをいまでもはっきり覚えている。そして、一つひとつの条文に込められた民主主義の精神、基本的人権と国民主権を毅然と示す文言のすべてに感動した。
そして同時に、それが現実社会において決してすべてが実現されているのではなく、この宣誓書の理想に向けて、飽くなき道を求めていくことがぼくら国民一人ひとりの使命なのだと確信した。
ぼくのその後の人生と折々の暮らしの場と人の輪の中で、実現しようとしてきたものの青写真、下書きとしてあるのは、常に日本国憲法だ。それは生きる基本にあった。
15歳のときからぼくはその実践の延長にしか、自分の人生を生きてきていないと断言できる。
自ら戦争に明け暮れ、敗戦後は、米軍の最大の極東の軍事基地として何がしか、アメリカの戦争に関わり続けている昭和・平成から、もうすぐ、内閣主導で年号名が決められた、令和に変わる。
その内閣は、戦後史の中で、もっとも日本国憲法を踏みにじり、その精神を歪曲し、積極的平和主義などという造語で、日本国憲法に反する軍事化と集団的自衛権の行使を可能にした戦後最悪の政権だ。
退位発表の陛下のお言葉に、「象徴として」という文言が何度も登場した。それが意味するものが何なのか、多くの国民が深く理解していない。
象徴としての天皇を生きる…その言葉にあるのは、日本国憲法の実践こそが天皇の使命であり、平和憲法を守り、国民生活を守ることであったという宣言でもあったのだ。それは明らかに、現行の政権のあり方への明確な批評だった。
世界から尊敬され、信頼され、愛される国。それは、世界から尊敬され、信頼され、愛される国民でいたいかどうかの問いだ。
歴史認識をゆがめ、自分たちに戦争責任はなかったことにすることが尊敬される道なのか。大陸や半島の人々にヘイトスピーチを投げつけることで国際社会から信頼がえられるのか。アメリカ隷従は国際社会から愛される道なのか。
自然循環型社会の江戸期まではあった、外国人に寛容で、融和的であり、300年も国内外での戦争にかかわらなかった日本が育んだ精神文化にあるものを、年号が変わるこの節目に、もう一度、ぼくらは本気で見つめ直した方がいい。
あなたは、あなたの考えは、世界から尊敬され、信頼され、愛されるものか。天皇の歩みをみつめながら、考えてみることだ。