ぼくは中学生のとき、その前文を授業で学び、震えるように感動したのをいまでもはっきり覚えている。そして、一つひとつの条文に込められた民主主義の精神、基本的人権と国民主権を毅然と示す文言のすべてに感動した。
そして同時に、それが現実社会において決してすべてが実現されているのではなく、この宣誓書の理想に向けて、飽くなき道を求めていくことがぼくら国民一人ひとりの使命なのだと確信した。
ぼくのその後の人生と折々の暮らしの場と人の輪の中で、実現しようとしてきたものの青写真、下書きとしてあるのは、常に日本国憲法だ。それは生きる基本にあった。
15歳のときからぼくはその実践の延長にしか、自分の人生を生きてきていないと断言できる。
自ら戦争に明け暮れ、敗戦後は、米軍の最大の極東の軍事基地として何がしか、アメリカの戦争に関わり続けている昭和・平成から、もうすぐ、内閣主導で年号名が決められた、令和に変わる。
その内閣は、戦後史の中で、もっとも日本国憲法を踏みにじり、その精神を歪曲し、積極的平和主義などという造語で、日本国憲法に反する軍事化と集団的自衛権の行使を可能にした戦後最悪の政権だ。
退位発表の陛下のお言葉に、「象徴として」という文言が何度も登場した。それが意味するものが何なのか、多くの国民が深く理解していない。
象徴としての天皇を生きる…その言葉にあるのは、日本国憲法の実践こそが天皇の使命であり、平和憲法を守り、国民生活を守ることであったという宣言でもあったのだ。それは明らかに、現行の政権のあり方への明確な批評だった。
世界から尊敬され、信頼され、愛される国。それは、世界から尊敬され、信頼され、愛される国民でいたいかどうかの問いだ。
歴史認識をゆがめ、自分たちに戦争責任はなかったことにすることが尊敬される道なのか。大陸や半島の人々にヘイトスピーチを投げつけることで国際社会から信頼がえられるのか。アメリカ隷従は国際社会から愛される道なのか。
自然循環型社会の江戸期まではあった、外国人に寛容で、融和的であり、300年も国内外での戦争にかかわらなかった日本が育んだ精神文化にあるものを、年号が変わるこの節目に、もう一度、ぼくらは本気で見つめ直した方がいい。
あなたは、あなたの考えは、世界から尊敬され、信頼され、愛されるものか。天皇の歩みをみつめながら、考えてみることだ。