秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あなたは世界から愛されているか

世界から尊敬され、信頼され、愛される国であってほしい。そういう日本でありたい、国民でありたい…。そう願わない人はいるのだろうか。

日本国憲法が目指したのは、戦争の過ちを犯し、自国民はもとより、アジア諸国を中心に世界に多大な苦難を与えた日本が、これからは世界の見本となるような国家を建設することで、過ちを贖うだけでなく、世界平和を牽引する手本となることを、いま現在、そして将来の目標として、国際社会に宣言した宣誓書だ。

ぼくは中学生のとき、その前文を授業で学び、震えるように感動したのをいまでもはっきり覚えている。そして、一つひとつの条文に込められた民主主義の精神、基本的人権国民主権を毅然と示す文言のすべてに感動した。

そして同時に、それが現実社会において決してすべてが実現されているのではなく、この宣誓書の理想に向けて、飽くなき道を求めていくことがぼくら国民一人ひとりの使命なのだと確信した。

ぼくのその後の人生と折々の暮らしの場と人の輪の中で、実現しようとしてきたものの青写真、下書きとしてあるのは、常に日本国憲法だ。それは生きる基本にあった。

15歳のときからぼくはその実践の延長にしか、自分の人生を生きてきていないと断言できる。

自ら戦争に明け暮れ、敗戦後は、米軍の最大の極東の軍事基地として何がしか、アメリカの戦争に関わり続けている昭和・平成から、もうすぐ、内閣主導で年号名が決められた、令和に変わる。

その内閣は、戦後史の中で、もっとも日本国憲法を踏みにじり、その精神を歪曲し、積極的平和主義などという造語で、日本国憲法に反する軍事化と集団的自衛権の行使を可能にした戦後最悪の政権だ。

退位発表の陛下のお言葉に、「象徴として」という文言が何度も登場した。それが意味するものが何なのか、多くの国民が深く理解していない。

象徴としての天皇を生きる…その言葉にあるのは、日本国憲法の実践こそが天皇の使命であり、平和憲法を守り、国民生活を守ることであったという宣言でもあったのだ。それは明らかに、現行の政権のあり方への明確な批評だった。

世界から尊敬され、信頼され、愛される国。それは、世界から尊敬され、信頼され、愛される国民でいたいかどうかの問いだ。

歴史認識をゆがめ、自分たちに戦争責任はなかったことにすることが尊敬される道なのか。大陸や半島の人々にヘイトスピーチを投げつけることで国際社会から信頼がえられるのか。アメリカ隷従は国際社会から愛される道なのか。

自然循環型社会の江戸期まではあった、外国人に寛容で、融和的であり、300年も国内外での戦争にかかわらなかった日本が育んだ精神文化にあるものを、年号が変わるこの節目に、もう一度、ぼくらは本気で見つめ直した方がいい。

あなたは、あなたの考えは、世界から尊敬され、信頼され、愛されるものか。天皇の歩みをみつめながら、考えてみることだ。














風評という言葉はいらない

福島県が退去を拒否している自主避難者の避難住宅(借り上げ)からの退去勧告を行ったことが弱者切り捨てのように叩かれている。

ここに来るまで、1年以上かけて、県の担当職員、自主避難者の自治体職員が自主避難者一人ひとりに国の予算の期限切れについて説明をし、その度に、暴言や文句、ときには罵詈雑言をぶつけられながら、頭を下げて、こまめな取組をどれだけ重ねてきたかを全く知らない。

中には、線量に問題はないにもかかわらず、過剰に反応し、自らふるさとを去った自主避難者と放射線量の危険性からやむなく、ふるさとを後にした、避難者とを混同している人までいる。

まして、帰宅困難地域に隣接する双葉郡など隣接する地域の人たちばかりが自主避難していると勘違いしている輩までいる。

原発から遠いが、一時線量が高かったために、子どもの健康を心配して、やむなく避難し、東京や首都圏、県内の別の地域で生活を始めた家族をぼくもよく知っている。

だが、その大半は、自らの選択で土地を離れた以上、しっかりとここでの暮らしを新たに築いていこうと考えている人たちばかりだ。決して、国の予算にぶらさがり続けようと考えている人たちではない。

しかも、決して福島のこと、自分たちのいた土地のことを悪くいう人などひとりもいない。それどころか、離れてしまったが、いまいる場所から福島のためにできること、ふるさとのためにできることをやろうという思いを持った人たちだ。

確かに、放射能はこわい。目に見えないものだからこそ、こわい。いますぐ、健康被害がなくても、数年後、十数年後がどうなかのか、はっきりしたデータがないから、こわい。

国の被爆規準、線量を軽減するための除染作業についての疑念はぼくにもある。だが、だからといって、自主避難生活を永遠に支える妥当な根拠にはならない。

同じように不安を抱えても、自主避難してきた人たちの土地で、地域の再建のために、再生、新生のために、日常を取り返すために、あのときから、ずっと、汗水流している人たちがいる。原発事故地域のような保証も、住宅補助もない中で、それを生きている人たちがいるのだ。

都内・首都圏のNPOなどで、自主避難者の支援をやっている団体がいくつかある。
ぼくもそうした集まりに参加したことがあった。そこで当事者から聴こえてくる言葉は、地域行政への批判とすべての責任は原子力災害だという声ばかりだった。

それだけならまだいい。

線量は決して低くない。自分の体調不良は放射能が原因だ。原発事故のために、生活もできなくなった…。科学的根拠も、医療的証左も示さず、被害者意識をそのままぶつける言葉ばかりだ。

断っておくが、大熊や双葉の人たちではない。多くの住民がいまも通常の生活を送っている別の地域の人たちの言葉だ。

一度も福島のいまを観たことも、行ったこともない、状況を知らない都会の人間が聴けば、当然、同情もすれば、かわいそうにも思うだろう。そして、そんなに危険な地域なのかと信じるだろう。

それが福島への風評を倍加させている。

風評という言葉はぼくは好きではない。ぼくの福島県内の仲間、友人たちも風評という言葉をよしとしていない。

自分たちがもっといいものをつくればそれでいい。自分たちの生産するものに自信があれば、乗り越えらるし、自分たちの生産したものがどれだけ素晴らしいかを伝えていく…他人のせいにしていない。自分たちの努力のあり方だと自らの課題にしているのだ。

国や県の予算にぶらさがって開ける未来など、高が知れてる。震災・原子力災害を自分たちの地域の明日を拓く教訓とできるものが、福島の未来を力強く、拓いていくことができる。ぼくが勝手にそう思うのではない。

ぼくが出会い、いま旧友のように、同志のように語らう県内の踏みどどまって闘っている友人たちがそう教えてくれている。















アップデートできない国

多数派であろう。そして、できれば、多数派の中枢にいたい。

いまに始まったことではないが、まるでDNAに組み込まれたもののように、多くの日本人がそう思っている。

そう生きることでこれといった変革や改革も起こさず、ただ以前あったシステムや制度、形式の表面だけを貼り換え、塗り替え、あるいは継ぎ足して、変革だの、イノベーションだのと大仰に騒いできた。

前例にこだわらず、時にはそれを捨て去り、潜在的な欲求や隠れた意志、ビジョン化されていないもの、言語化まで辿り着いていない社会現象や人々の生活にある未来志向を掴みとり、前例のないパラダイムやプラットフォームを創造することをぼくらは長い間やってきていない。

やってきた気でいるだけだ。

IT革命があっても、所詮、産業革命の延長にしかなかったぼくらの生産活動や生活形態がAIの技術開発の進展で、5年から10年後には、大きく様変わりするとわかったいまでも、官公庁の公式文書はA4サイズと決まっているし、ペーパー優先主義は変わっていない。

先ごろ、暴かれたように、中央省庁のデータ改ざんが平然と行われ、ひどいのは手書きで修正されている。内閣の大臣面会記録が矢継ぎ早に破棄されていたりする。

いかにこれまでとは違う〇〇ですと胸を張ろうが、遅れた脳が考える新しいことは、所詮、陳腐な代物でしかない。

ということがわかりながら、そうした多数派の輪の中に多くの人はいたがり、自分たちの遅れた脳、まったく更新も、アップデートもされていない、腐った脳で、陳腐なアイディア、発案をさも新しいことのように公言して満足しているのだ。

変革はそのようには生まれない。小手先で、わずかな見栄え、体裁をいじっても変革にはならない。規模は小さいてもいい。だが、発想と着眼と視座は、広角で大胆で、反逆的なるものでなくては、大きな変革にはつながらない。

多数派の中にいたい、多数派の主流でいたい腐った脳の人間たちには、当然そんなことはできない。腐った脳が未来志向の意志を摘み取り、状況を停滞させるどころか、より悪化させていく。

それでもDNAに組み込まれて、そこからの飛躍も飛翔もできないなら、腐った脳を好きなだけ蔓延させ、次を生きる人たちから戦犯として処刑される道を歩むことだ。

それがわかってるから、慌てて、保管すべき公文書を改ざん、破棄している。







はぶかれるのがこわいチキンハートの国

自分の弱さや弱みをさらけ出すというのは容易なことじゃない。この世の中の多くの過ちや間違いといったものは、大方、それに起因していると思う。

体面や面子、体裁といったものの背後にあるのは、それだし、虚勢や虚言といったものもそれに起因している。

自分の弱さや弱みを突いてくるものに、途轍もなく不寛容で、冷淡に、あるいは、激しく感情をぶつけるのも、排除するのも多くの場合、それによっている。

ただ、それだけならまだ人の弱さのあり方として見逃すことができる。

弱さ、弱みを隠すために、さもそうではないように、言葉を弄したり、弄したために、辻褄合わせの改ざんや隠ぺいをやり、それがなかったかのように、口裏合わせや力を乱用して発言や反論を封じ込めるとなると、話は別だ。

都合のいい議事運営や法解釈、法案の可決。裏側にある利権や利益相反のチェックもなく、マスコミ、ジャーナリズムを黙らせ、するするとすべてが政権の思うがままに運んでいる。

この途方もなく、危うい状況が、この数年、平然とまかり通り、これに異議を唱える人間が権力の中枢にも、これを検証する側にも希少となっている。

チキンという単語が「弱虫」を意味するということを、ぼくは中高生のときにリバイバル上映で観た、映画『理由なき反抗』や『ウェストサイドストーリー』で知った。

間違いと分かり、おかしいと気づきながら、それに従おう。従ってさえいれば、身の安全は確保できる。社会からはぶかれることはない。得になることがある…。

政治的要因が生む、不条理や不合理、人権の蹂躙には目をつぶり、社会生活にある、格差や貧困、差別や偏見も当事者の問題としてその事実から目を背ける。明日は我が身とならないため集団への帰属と貢献をひたすら従順に果たし、矛盾には切り込まない…。

日本には、「ノミの心臓」という言葉はあるが、英語のchicken heartに当たる言葉がないのかもしれない。弱虫は弱虫でも、省かれるのをこわがって、弱虫たちが弱虫たちの中で権力だけ持っている人間に無批判でなびいても、それを否定する言葉が日本語にはないのだろう。

少なくとも、似た状況にあるアメリカでは、果敢にジャーナリズムが闘っている。権力の中でも反対勢力が立ち向かい続けている。

自分たちがchicken heartと市民、大衆から、いや、後の歴史を生きる者たちから批判されないために。chicken heartには、弱虫だけではない、恥を知れという意味が込められているからだ。


















砕けたステンドグラスたちの壊れた承認

ぼくらは砕け散ったステンドグラスのような存在だ。

片割れのいくつものステンドクラスがそれ自体、自分という存在のすべてを表象できないように、ぼくらは、ぼくであることの感触を得ることができないでいる。

それでいながら、破片の一つひとつの存在、どれひとつ欠けても自分足りえない。自分でありながら、自分足りえていない。そのもどかしさをぼくらはどこか感じている。

しかし、視野を片割れのひとつとしてしか持ち合わせていないぼくらは、砕け散ったステンドグラスをジグソーパズルのように組み合わる視座を持てず、それを明確にすることも、立証することもできないために、不確かさという危うさの中に放り出されたままだ。

その危うさゆえに、散らばった断片の一つひとつとして、満たされない自己承認のあくなき欲求に曝されている。砕け散ったステンドグラスゆえの果てしない哀愁の大海でぼくらは揺らぎ続けている。

それがいまという時代のぼくらだ。

問題になっている内閣府内閣府を取り巻く中央官僚たち、またその部下として事情を知る管理職、職員たちも、この危うさを痛烈に実感する、官庁・公務員という公職にいる。

公に職があることは、公の前で「私」は抹消しなければならない、あるいはされる存在であることを事前承認しなくてはいけない。

その危うさが、常軌を逸した改ざんや隠ぺい、虚偽答弁を組織からの承認を得るために平然と、ときにはしどろもどろにできてしまう。大衆からの「私」への承認以上に、官僚機構、公職という砕け散ったステンドグラスの一片の中での「公としての私」の承認を得るために。

それが組織ぐるみで隠ぺい、改ざんし、組織ぐるみでそれを否定し、さらなる書類の改ざんへと常識を逸脱させる動因となっているのだ。

公務員という職が定期的異動があっても成り立つように、彼らは入れ替え可能なだれでもいいだれかだ。そのことを自身よく承知している。

かつては、その入れ替え可能性の不在をわずかに存在した官僚の良識や矜持、それらを孤高に持ち合わせたリーダーが公平性のある評価で支えていた。あるいは、誇りある政治家たちが存在を裏付けしてくれた。

だが、いまは、だれもが砕け散ったステンドグラスだ。本来のあるべき自分たちは、聖堂に暁光を取り込む荘厳なステンドグラスの窓であったことも、人々の衆目を集める貴重な職芸の美の花瓶であったことも示すことができない。

その結果、自分にはそうした威光も知恵も能力もないことを徹底的に知った凡庸な人間たちが、自己承認のために政権トップに立つと、「公」という欠けた破片の世界での承認を「公の私たち」に要求する。

政権トップとその取り巻きたちは、片割れとしてしか生きられない危うさを、そうやって、「公の私」への承認を必要とする官僚たちを巻き込み、あらゆる虚言や利益誘導、そして利益相反も常識としていく。

彼らに国民、大衆の承認はさほど重要ではない。国民、大衆にとって非常識、常軌を逸することも厭わない。いや、厭うという感覚すらなくなっている。望むのは、常軌や社会規範、社会常識ではなく、ただただ、否定のない、承認だけある世界なのだ。

ジャーナリズムへの圧力もそのためにだけなされ、その後先は彼らのスカスカの脳では想像できていない。

常識や社会倫理で議論しても、前へは進めないことをぼくらは気づいた方がよい。













信じられる大人の姿

たぶん、ぼくがひねくれ者だからだろう。

この時期、テレビの震災関連の報道特集や慰霊特番、スペシャルドラマといったものにひどく違和感を覚える。

人の悲しみや痛みは他者が容易に共有できるものではない。当事者でなければわからないこと、わかっていても言葉にできないこと、思いというものもある。

また、震災当時から言い続けているけど、被災の現実は一応ではない。一人ひとりの生活が違うように、被災の現実も人の数だけある。

そして、8年のという歳月の中で、また、それぞれの現実も大きく変わっている。どう俯瞰しても、一律に語れる、解釈できるような代物ではない…とぼくは思う。

冷たい言い方に聴こえる人もいるだろう。だが、ぼくがこの8年、福島で、あるいは東北の各地で見て学び、そこに生き、現実と向き合う人たちから教えられたのはそれだった。

特に原発事故を抱えた福島は、原発とのかかわり方の深度、その距離の取り方で人々の意識も違う。

ことさらに、放射線量の危険を声高にいう人の中には、線量の低い地域から自主避難し、自らの地域を否定するように、福島のマイナススピーカーになっている人たちも少なくない。また、そうした声を支援という名で、過剰に祭り上げる人たちもいる。

何が真実で、何が嘘なのか。嘘ではないとしても、主観的で、矮小化されたものなのか、そうではないのか。それを見極めることがとても大事だ…ぼくは3.11の後、福島と関わるようになったときから、心にそう決めていた。

そう決意させていたのは、何よりもぼくが被災の当時者ではないからだ。そこに生きる人間ではないからだ。そして、様々な形で、何がしか表現できる場と機会を持つ人間だったからだ。

冷静であること。感情に押し流され、同情や憐憫を持たないこと。心情的に共感するものであったとしても、そこに留まらないこと、溺れないこと。

それが物事をしっかりととらえ、被災者とそうでない者という関係を越えることになる。同じ立場で、志を同じに、これからの道を探る…そのことの方がはるかに震災・原子力災害に立ち向かう、そのときの逼迫した課題だった。

そして、それが、あの日を契機に、いや、あの日がなければ出会うことのなかった、ぼくらが出会ったことを明日へ生かす道だと確信していた。

その思いはいまも揺るがない。

過去を振り返ることは大切なことだ。奪われたいのち、生活に思いを寄せ続けることも当然な感情だと思う。ぼく自身、震災直後の風景を目にし、胸に突き刺さった感情がいまの活動の動機になったことは否定しない。

けれど、だからこそ、失われたすべてのいのちに、奪われたいろいろな思いに応える道は、いままでを取り返すことでも、いままでと同じ日常に戻ることでもないのだ。

次へつなぐための、いまをつくることこそ、あの日を未来に生かす道だとぼくは思う。

記憶の継承も重要だが、それと同じ、いや、それ以上に、自分たちの地域を次の人々が誇りを持って生きられる場としていくことだ。よりよい明日へつなぐことだ。

いままでとは同じじゃない。そう胸を張って、次の人たちに言える、恥ずかしくない行動をし、完全ではなくとも、実現してみせる道を歩むことこだ。

信じられる大人の姿を遺すということだ。


















大人がいなくなった社会

芝居や映画の世界では常識とされていた、レンブラント照明。

オランダの巨匠レンブラントの絵画から引用されていると御存じの方も多いはずだ。
あるいは透明感に満ちたフェルメールの窓から差し込む光…。       


中世や近世の絵画はモチーフとされる表象の一つひとつに含意、隠喩がある。それが知識としてないと、正確には中世・近世絵画が描こうとしてる世界を把握することは難しい。

シェークスピアでも、一つの単語やフレーズに幾重にも意味が塗り込められ、解読書といってもいいグロッサリー(専用辞書)がないと韻文に含まれるシェークスピアの悪だくみ、おふざけ、批評性といった原書のおもしろみは楽しめない。                             


ぼくらの日常といわれる世界は、幾重にも重なる小世界がつくっている。

素数の謎を解く、ひとつの鍵だとされる非可換幾何学を応用すると、ぼくらの時空は3次元ではなく、12次元で成り立っているらしい。つまり、いくつもの時空の断片がひとつの「いま」としてぼくらに現実認識をさせている…ということだ。              

ぼくが演劇にのめり込んだのは、ひとつの現実の表象が見えない多くの何かによって複合的につくられ、いま断片としてそこにあるのだと直感させる、劇的なるものへのワクワク感だった。

そして、観客の前に幾重にもあるぼくらのいまを断片のひとつとして切り抜いて、客の前に現前化させるのに、レンブラントフェルメールを応用することはとても重要なことだった。

いま演劇でも映画でも、幾重にも重なる小世界を意識して、その断片として人、世界を捉える深く、洞察に富んだ視点がすこぶる脆弱になっている。              

光の当たることころだけを捉えて、これがぼくらの現実であり、日常であり、世界なのだとする表層的な考え方が広がっているような気がする。

それは実に狭隘で、自己本位で、排他的で、やがては密室化し、萎縮し、濃密化することで、逆に光のない世界へぼくらを招き寄せる。

光の当たるところにいよう、光をより自分に当たるようにしよう…そうすることで影のあること、影そのものが存在しないことにする。

それではぼくらの日常が何たるかを知ることも、社会、世界の現実がどうなっているかを理解することも、遠く及ばないだろう。  

光の当たる場所で、ぼくらは子どものように燥ぎ、もっと光の当たる場所にするためにはどうすればいいかだけに腐心する。影があることさえ無知なまま。無知であること、それ自体が罪であることに気づけぬほどの幼児性で。                 

大人がいなくなった社会…。それがぼくらがいまいる時代の断片のすべてだ。      

考えてみてくれ。舞台や映画にこうした知性がなく、舞台上を画面上を溢れる光で照らすだけの何の陰影もない、芝居や映画の一コマを。それがぼくらのいまだ。







      












ゆりかごの中のぼくら

三島由紀夫の『文化防衛論』が出版されたのは、1969年。執筆はその前年のことだ。

当時、世界に広がり、日本にも怒涛のように押し寄せた学生運動の潮流に危機感を抱いた三島は、左翼を含め、この国に蔓延している欧米主義、明治以後の日本の極端な欧化政策による、近代化と戦後一層顕著になった日本のアメリカ属国主義の過ちを改めて痛烈に批評した。

三島由紀夫は左翼も右翼も遥かに越えたところで、日本の未来を見据えていた…と、ぼくは思っている。

確かに、武士に象徴される男性神話とそれがもらたす、天皇を神とする日本文化の根幹にある精神性に耽溺し、天才文学者らしく、実人生でもそれを小説のように生きようとしたというのが実際のところだろう。

現実に、小説世界を逸脱し、三島が最後に選択した自決への道は、ナルシズムの典型的な形で終わったし、当時、三島の行動はその文学への高い評価とは裏腹に、大衆の支持を勝ち得なかった。余談だが、その結末は太宰とあまりにも相似している。

だが、三島が予見した通り、高度成長期から成熟した消費社会とその後の凋落という時代の流れの中で日本人が本来備えていた、社会倫理や道徳は果てしなく崩壊し、それは家庭・地域・社会、そして政治・国民のモラルハザードへとつながっていく。これも余談だが、戦後、これに危機と失望を抱いていたのは太宰が最も顕著だった。

アメリカ従属主義は戦後以上に、この国の政財官に蔓延した。重要法案の国会提出も、その決議も、アメリカの影が常に付きまとう。

アメリカの経済を支える富裕層と同じく、消費、物を得ることが美徳と取り違えされ、人々の幸福の尺度は、モノ・カネにとって代わられた。

そして、三島の予想通り、アメリカ従属から隷従へと変わった。

アメリカとの戦争に負けたからではない。二度も世界大戦を生き、国家の分断まで経験したドイツは、決して戦勝国に隷従してはいない。アメリカへの隷従は、この国の政治家と国民が安穏と、かつ利益相反の中で、あるいは圧力の中で、選択してきた道なのだ。

日産のゴーンCEOの事件で、裁判所は、これまで多くの冤罪の温床となるとして、国内司法関係者からの批判があった再逮捕による拘留延長を異例中の異例で反故にした。かつ、検察は、フランス国籍のゴーン氏に対してはさらに再逮捕を突きつけ、拘留延長を図ろうとしている。

だが、実行役とされる日産の前代表取締役アメリカ人であるケリー氏については、保釈が実現する。妻の検察に対する抗議を全世界に流した、アメリカ政府の圧力があったからだ。アメリカの一息で強固だった裁判所の判断が判例を無視して、簡単に覆る。

沖縄では、知事選で明確に県民の意志を示したにもかかわらず、辺野古湾への強引な土砂搬入が行われている。アメリカとの地位協定の見直しさえ進まない中での強行だ。

いまぼくらは、三権(司法・立法・行政)をすべて、アメリカのご都合主義の掌の中にゆだねられている。アメリカ経済は来年以後、急速な不況が予想されている。この国は、2020を隠れ蓑に、そのアメリカの後ろを着いて行くだろう。

それがぼくらが選んだ、ゆりかごの世界だ。


だが、そのゆりかごは、国民全員を気持ちよく、揺らしてはくれない。アメリカ政府・政治の威光に身も心も投げ出す、国を、国民全員、あまねく人々のことを考えない人たちのゆりかごでしかない。












大人の姿勢と知性

子どもであった頃の記憶を消して、大人のふりをする。

子どもの頃の満たされなかった欲求感情を引きずって、子どもであった頃の純真さを持ち越していると勘違いする。

思春期、青年期の子どもたち、若者たちが一番疎ましく思うのは、そんな大人たちだ。

昨今の若者たちは、育ちのいい子が多いので、そんな自分好きの大人たち相手でも、とりあえずはうまく立ち回り、程よく相手をしてくれるが、決して信頼や尊敬など抱いてはいない。

自分たちが思春期、青年期の頃のことを少しでも謙虚に振り返れば、そんな大人たちに信頼や尊敬の感情など芽生えなかったことがわかるだろうに。

たかだか、半径何メートルほどの狭い人生経験や社会経験で、たいした学習もしていないのに、それで周囲の信頼や尊敬が得られているとはき違えている。

先週の日曜日、今年最後で最大のイベント事業が終わった。半年がかりの本業の仕事とのブッキングで昨年にも増して、多忙だった1年だったが、イベントも作品も無事、約束通りに仕事を片づけることができた。

港区のイベントでは、この3年、毎年、来賓であいさつにご登壇いただいている方がいる。


そのごあいさつの内容は、85歳という最高齢者であるがゆえの、参加した高校生たちへの熱い思いにあふれていた。しかも、今回、超難関の科学技術高校生徒たちの参加があったことを念頭に置かれての気配りのあるお話だった。

「高校生諸君には、ぜひ、サイエンスを極めてもらいたい。資源もないこの国がこれから生き残るためには、人しかない。それも科学技術の最先端を拓く人材が何としても必要なんです…」。

かつて、敗戦からこの国が立ち上がろうとしたとき、それと同じ言葉があったことを思い出した。


そして、いまというこの時代に、あえて、それを語るF氏の思いが強く、ぼくの胸を打った。いまという時代だからこそ、日本人の、敗戦後の原点に戻って…。その思いは、集まった優秀な高校生たちに伝わっているという空気が広がっていた。

意見交換の場でも、ジョークや笑いが生まれる交流となった。参加した高校生たちの自由な意見や発想が飛び交い、客席も笑いに包まれた。音楽公演は終わっても
中座する人、帰る人もいなかった。

何かはわからくなくても、詳細にぼくらの活動やぼくの願いはわからなくても、あるいは、来賓の方々のあいさつやコメントの全部はわからなくても…

そこにあるメッセージが「君たち高校生」のものであることは確かに伝わっていたのだ。そして、それを受け止めようとする高校生たちの姿が、だれも席から立とうとはさせなかった。

そこには、おバカな大人がいなかったからだ。謙虚に高校生たちの音楽、姿、姿勢、言葉に耳を傾ける大人たちがいたからこそ、高校生たちも自由でいられた。

信頼や尊敬は肩書でもなければ、年齢でもない。まして立場や学歴でもない。その人の教養と素養、そして、生きる姿勢が、その言葉がどれだけ知性に満ち、開かれたものであるかどうかだけだ。






















I have a dream

「私には夢がある…」。その言葉で始まった、キング牧師の演説は、アメリ公民権運動を強く牽引する力になった。

「私には夢がある…」。その言葉が生んだ行動は、実現不可能を人々の小さな力の結集が可能にすることを証明した。

ぼくは若い頃から、「それは実現不可能なことだ」とする世間や社会、世代の壁にぶつかってきた。そして、いまもまだ、それは続いている。

果たして、実現不可能だと決めているのはだれかのか。何なのか。

じつは、実現不可能だという人の多くがその答えを知らない。考えたこともない人たちだ。

これまでがそうだから。そう考えることが無難だから…。何の根拠もない、それらをあたかも正当な理由のように考える人たちが、不可能の壁をせっせと作り上げ、明日や未来を拓く最大の障害物となっていることに気づいていない。

明日への、数年先への、あるいは10年、20年先の未来を考えない人たち、考えられない人たちは、変えていくこともできないけれど、いまを充実させることも、充足させることもできない人たちだ。

やっているつもり。いまを充足させているつもりが、そうした人たちがやっていることは、いまをやせ細らせ、日々、明日をぶちこわしているだけのことだ。

ぼくが福島で出会い、原子力災害と向き合う人たちの多くは、志や誇りを持った自分たちであるために、そういう自分たちであることを示すために、不可能といわれることに挑戦している。

震災や原子力災害の前に戻ればいいのではない。震災と原子力災害を教訓に、自分たちの文化や生活をどう守り、明日へ向けてどう新しくしていけばいいかを考え、行動する人たちだ。

だから、ただ物が売れればいいのでもなく、ましてや同情などで支えてもらおうなどと考えてはいない。

それができるのは、そこに彼らのI have a dreamがあるからだ。

明日へのビジョン、夢、目指すものがなければ、不可能を可能にする力も生れはなしない。そのために、自分のいまある場所で新しいものを生み出そうと取り組み、懸命にはなれない。

そして、その苦労さえも喜びにできる力がなければ、実現はしない。継続もできない。

東北3県を回ったこの半年。ぼくは改めて知らされた。

ぼくが福島にこだわり、そこで貴重な出逢いをもらい、いまも活動が続けていられるのは、その彼らの夢と出逢っているからだ。

岩手、宮城で新しい、多くの夢と出逢いながら、ぼくは、それを痛感した。岩手で、宮城で出会ったたくさんの夢…。それは、また、ぼくの夢をまた膨らませ、実現不可能と思えることに挑戦する力を与えてくれている。

明日のために、夢をつむぐ…。それがぼくがこの8年やってきたことなのかもしれない。